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遺跡発掘調査の成果
平成17年度 遺跡発掘調査の成果
八幡市教育委員会では、平成17年度に下記の遺跡調査を実施しました。このうち主なものについて調査成果を報告いたします。
平成17年度実施調査一覧
| 調査原因 | 遺跡名 | 件数 |
|---|---|---|
| 開発に伴うもの | 女郎花遺跡・山田遺跡・山本町遺跡(本発掘)・川口扇遺跡(試掘) | 4件 |
| 測量調査等 | 美濃山王塚古墳 | 1件 |
| 詳細分布調査 | 木津川河床遺跡(木津川河川敷) | 1件 |
女郎花遺跡発掘調査
- 調査地 京都府八幡市八幡大芝53-1,54-1,54-2,54-3,55
- 調査原因 宅地造成に伴う道路建設
- 調査委託 株式会社 信和住宅
- 調査面積 約450平米
- 調査期間 平成17年8月8日~平成17年10月7日
- 報告書 平成19年3月刊行予定
調査地周辺の歴史
女郎花遺跡は男山の東麓となる傾斜地に立地しています。周辺には全長約120メートルの前方後円墳・西車塚古墳や東車塚古墳など大小の古墳が多くあるほか、南には奈良時代の古代寺院・志水廃寺もあります。また調査地のすぐ東を東高野街道が通っているように、古くから交通の要衝であり、そのため遺跡が集中している場所であるといえます。
調査地の北隣接地では、平成9年の発掘調査で小さな方墳(大芝古墳)が発見されています。
調査成果
今回の調査地は古墳の立地する高台から、平野へ向かって下がる傾斜面であり、調査区南端には谷地形となっています。調査の結果、丘陵地縁辺部で古墳時代~古代の建物跡・井戸・池など、またその東側斜面には、鎌倉時代頃以降、中近世に渡って作り出された段々畑を検出しました。
丘陵斜面に形成された池は、検出部において径12メートル程を測り、人工的に作られたものと見られます。生活用水の確保を目的につくられ、奈良時代から平安時代を中心に使用されたものと推測しています。この池は平安時代後期頃には埋まり始め、鎌倉時代頃には本格的に埋め戻され、その跡地に段々畑が作られていました。
段々畑は、埋め戻された池の南部を中心に、これまで土地利用されていなかった傾斜地に土を盛って平坦面を作り出したものです。平坦面の幅は1.5~2メートルの狭いもので、地形にあわせた形状をしています。
まとめ
水の確保が難しい丘陵地は、古墳時代には墓地としての土地利用しかされていませんが、奈良~平安時代頃に、ため池をつくって、人々は問題を克服していきました。さらに、土地利用しにくかった傾斜地を、平安時代末期~鎌倉時代頃に造成して耕地として利用されるようになり、これが近代まで継続するのです。土地利用拡大のため、先人たちが行った努力の跡が刻まれた遺跡は、地域の大切な歴史を知らせてくれます。

鎌倉時代頃の段々畑(青い破線の方向に延びていきます)

奈良時代~平安時代頃の池の跡

古墳時代後期頃の土師器 甕

調査地 全景
ダウンロードファイル
女郎花遺跡 現地説明会資料[248KB:PDF文書]
山本町遺跡 発掘調査
- 調査地 京都府八幡市山本
- 調査原因 宅地造成
- 調査委託 株式会社野原工務店
- 調査面積 約130平米
- 調査期間 平成18年3月6日~平成18年4月4日
- 報告書 平成19年3月刊行予定
調査の目的
山本町遺跡は、後村上天皇が南北朝時代に築いた男山城跡として認識されていましたが、平成9年に宅地造成に伴ない発掘調査を実施したところ、江戸時代後期の礎石建物跡、幕末~明治初年の瓦・土師器等を捨てた穴(土坑)、赤く焼けた土の層などが見つかりました。調査地のすぐ東側を近代に東高野街道と呼ばれる道が南北に走り、近世には山本町と呼ばれていたことから、遺跡は石清水八幡宮の門前町に関する集落遺跡と認識され、2005年改訂の八幡市遺跡地図では、山本町遺跡(男山城跡)と呼ぶようになりました。今回、平成9年調査地の西隣接地で宅地造成が計画されたため、新設道路部分について面的調査を60平米、奥の男山側斜面上において試掘調査を70平米行いました。また、対象地の北端に現在も開口している大きな石組みの井戸は、工事にあわせて埋められる計画であるため、あわせて現況測量調査を実施しました。
調査成果
江戸時代の生活面を2面調査し、江戸時代後期~幕末の生活面では土坑などの遺構、その下では整地層の上に江戸時代前期(17世紀中頃)に建てられ、江戸時代中期に廃絶した礎石を使った建物跡が見つかりました。その下には、生活面は確認できなかったものの、平安時代後期~室町時代頃の多量の遺物が出土しました。遺物は現在整理中ですが、多くの土師器皿のほか、国産の陶磁器(瀬戸・唐津・伊万里・京焼系)、中国製の磁器(青磁・白磁・青花),瓦器,黒色土器,瓦などがみつかりました。
まとめ
発掘調査の結果、調査地は江戸時代前期頃に整地され、礎石建物が建設されたことがわかりました。礎石をもつ建物は、通常の町屋にはみられず、寺院もしくは有力商人の屋敷跡などで多くみられます。この建物も寺院もしくは有力商人の屋敷跡である可能性が高いと思われます。今後、絵図・文献等を検討することによって山本町遺跡の様相が解明されることが期待されます。また、平安時代後期以降の遺物が出土していることは、調査地の近くにこれらの時期の遺構が眠っていることを示唆しています。

調査地全景(東~)
礎石建物
川口扇遺跡 試掘調査
- 調査地 京都府八幡市川口扇ノ芝 他
- 調査原因 市道建設
- 調査委託 八幡市
- 調査面積 約147平米
- 調査期間 平成17年10月17日~平成17年11月2日
- 報告書 平成19年3月刊行予定
調査の経緯
川口扇遺跡は川口西扇・東扇・別所などを中心とする遺跡です。古代~中世頃の遺物散布地で、これまで発掘成果がほとんどなく、その性格などはよくわかっていません。この遺跡内とその東側で市道・園内野神線の建設が計画されており、遺跡の状況を確認するため試掘調査を実施しました。調査は川口扇遺跡内に4箇所と、その東方の中世集落遺跡である川口環濠集落との間に2箇所、合計6箇所の調査区を設定して行いました。
調査成果
畑であった川口扇遺跡内に設定した4箇所の調査区で、遺物包含層から鎌倉時代~室町時代(13~15世紀)の土器・陶磁器が多量出土しましたが、建物の痕跡などの遺構は全く発見されませんでした。堆積土は、近・現代の耕作土の下に、中世遺物を多く含む褐色の砂質土~シルトがあり、その下(地表下約0.5~1メートル辺り)に黄褐色砂が分厚く堆積しています。褐色砂質土からは土師器の皿、瓦器椀、瓦器羽釜・鍋などの13世紀後半~15世紀頃に比定される遺物が、大きな破片も含み多量出土しました。しかし、遺物は中世のものにごく少数ながら近世以降のものがまざりあって出土しており、下の層からも15世紀代とみられる新しい遺物が出土していることなどから、中世の土器を多く含む土は、江戸時代以降に他所から持ち込まれた土であると考えられます。
もっとも下に堆積していた黄褐色砂は、一番下の写真のとおり、調査区の土層断ち割りで地表下約3.5メートルよりさらに下にまで分厚く堆積しており、古墳時代後期~平安時代(6~9世紀)頃の須恵器などがかなり磨耗した状態で少数出土しています。この頃に当地が河原だったことを示すものです。この河原を畑などに利用するために、他所から土を持ってきて積んだものと考えられます。
調査対象地東方の5区・6区は1~4区とは全く異なり、厚い現代の盛土の下には灰色~青灰色の粘土が堆積していて、6区では地表下約2メートルで中世の土器が出土しています。現地形からもわかるように本来標高が低い、集落には適さない地点です。明治時代の地図で水田として利用されていたことがわかりますが、堆積土の様子から中世頃には水田として土地利用されていたことが推測されます。
まとめ
現在の木津川は、川口から橋本辺りが明治2年に付け替えられたもので、江戸時代には上津屋から北方の淀へ向かって流れていました。これより古い時代に、現在よりずっと西側、「内里」の集落の東側から湾曲しながら北上し、川口周辺を流れていました。八幡の古い地図をみると旧河道の痕跡が田畑の地割りに残されており、今回確認した砂層はこの古い木津川が運んだ土砂の可能性があります。河原であった当地は近世以降に盛土され、耕作地(畑・果樹園等)として利用されたと考えられます。中世の土器を多量に含む盛土は、現地表面の微地形からみるとかなり広範囲に大規模に行われているようです。この土がいつどこから持ち込まれたのかは、当遺跡の歴史過程を考えていく上では大きな課題のひとつとなるでしょう。また数多くの中世遺物は、近辺地に今回確認できなかった中世集落が存在していた可能性も示唆しています。木津川流路の変遷ともからみ、今後さらに詳しい土地利用の変遷を明らかにしていく遺跡調査が必要でしょう。

1区(一番西の調査区)第2面(西から撮影)

6区全景(東~)

2区下層の断ち割り