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YAWATA STORY 04 解説編

Shokado Bento の詳しいものがたり

松花堂昭乗と四つ切りの箱

 神仏習合の宮寺、石清水八幡宮にあった瀧本坊の社僧で、当代一流の文化人であった松花堂昭乗。「松花堂弁当」の名前のもとになった人物です。昭乗が愛用していた四つ切り箱が、松花堂弁当の由来となっています。
 昭乗は瀧本坊の住職を引退後、泉坊へ移ります。その際、持参した道具類の記録の中に「ゑのく入はこ壹つ」とあります。昭乗が没して百年ほど後の延享3年(1746)、瀧本坊で開かれた茶会の席で、春慶塗の煙草盆が用いられています。この煙草盆は昭乗好みの四角で、薄く、中を十文字に仕切り、瀧本の墨絵が書かれていたと記録されています。
泉坊へ持参した絵の具入箱が四つ切りだったと確かめることはできませんが、おそらく昭乗が絵の具入れとして用いていた箱が四つ切りで、昭乗没後、煙草盆として茶会に出され評判になったものと考えられます。
戦前には当時の松花堂庭園の所有者・西村芳次郎氏が、松花堂遺愛の煙草盆および会席膳を所蔵しており、これが松花堂好みの四つ切り箱として知られるようになったのでしょう。松花堂美術館所蔵の「松花堂好 春慶塗四つ切箱」は時代が下がるものですが、四つに仕切られたそれぞれの面には水仙、燕、翡翠、菊と四季の風物が描かれています。

松花堂庭園ができるまで

 明治の神仏分離令により、男山から撤去された泉坊の書院と松花堂は、当時男山の麓に住んでいた人物に売却され、明治13年(1880)には山柴から旧志水町の南端に移されました。明治24年(1891)に国学者であった井上伊三郎(忠継)がこれを譲り受け、現在の松花堂庭園の地である東車塚古墳の上に、書院と松花堂を同時期に移し、あわせてもとの泉坊の庭園をもここに移したと伝えられます。
明治30年には古墳の前方部を造成して鏡や剣身が発見され、明治35年には後円部を庭の築山に修造するにあたり、古墳の埋葬施設である粘土槨と礫床、古鏡3面、玉類や刀剣身、甲冑などが発見されたと伝わっており、東車塚古墳の墳丘全体を、邸宅と庭に仕立てる構想であったようです。
その後、庭園は井上伊三郎の次男、西村芳次郎(1868-1939)に受け継がれました。八幡の郷土史家として活躍した芳次郎は、三宅安兵衛の遺志による道標建立事業に取り組み、「松花堂保存会」を支え、昭乗の墓地に泰勝寺を建てた立役者のひとりとしても知られていますが、庭石や石灯篭等を加えて庭の整備にも努めました。昭和7年、『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』に「東車塚庭園」として取り上げられたことを契機に、各種の出版物などに掲載され、昭和12年には重森三玲が庭園実測図を作成するなど、松花堂庭園は注目を集めるようになりました。三井物産初代社長の益田孝(鈍翁)などとも交流を深め、徳富蘇峰、吉井勇といった名だたる文人が逗留し、画家の梅原竜三郎・福田平八郎・小野竹喬らが訪れるなど、松花堂庭園は京都南西郊外に花開いた八幡の文化サロンの舞台となっていったのです。

国指定史跡・松花堂およびその跡

 松花堂庭園も、西村芳次郎の死後、昭和30年には別の人手に渡ってしまいます。このようななか、昭和32年に「松花堂およびその跡」として、石清水八幡宮の泉坊の旧地とともに、松花堂の移築地約270.35㎡が国史跡指定を受けました。指定面積は2か所合わせて1557.82㎡です。松花堂昭乗が晩年隠棲した石清水八幡宮境内の松花堂跡に遺構が残り、その移築先には保存状態のよい茶室や書院が残っていることから指定されました。昭和59年には、「松花堂」が建造物として京都府指定文化財となり、同時に泉坊の書院・玄関各1棟が京都府の登録文化財となりました。

国指定名勝・松花堂及び書院庭園

 さらに平成24年、石清水八幡宮境内が国史跡指定となり、男山山腹にある史跡 松花堂の跡は二重に史跡指定を受けることとなりました。
平成24年からは、草庵松花堂の修理を目的とし、庭園の再調査が行われ、平成26年10月、「松花堂及び書院庭園」として国の名勝に指定されました。
石清水八幡宮から移築された、江戸時代の茶人・松花堂昭乗が営んだ草庵茶室に由来する松花堂と書院を中心として、近代以降に造園された茶庭を主体とする庭園であり、その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値が高く評価されたものです。

草庵・松花堂と泉坊書院

 「松花堂」は泉坊の一隅で昭乗が晩年を過ごした小さな草庵です。茅葺宝形造の小堂で、二畳の間を主室とし、前に約半坪の瓦敷きの土間を付し、そこにカマドを備えていました。二畳の正面奥には、床と三段の袋棚を並べ、棚と直角に半間幅の仏壇を設けています。東側には小縁を付し露地からの上り口とし、西側には一畳半程の板の間が付き、その西北に水屋があります。茶室研究の第一人者、中村昌生氏は、随分多くの装置がわずか一丈四方の小空間に巧みにまとめられており、特にカマドを持つことは、これによって茶事に必要な一切の備えを集約しようとする意図を示している、といわれ、「これほど〈自ら薪をとり、湯を沸かし、茶をたて、仏に供え、人に施し、我ものむ〉という茶の湯の原理を、端的に具体化した組み立ては他にはないであろう。」と評価されています。
 泉坊書院は、男山から移築された江戸時代初期の書院座敷を中心とする一画に、西南の茶室・広間が連なる一画、北側の玄関からの座敷列と居室、南端の土蔵を付け足したもので、明治31年に完成したものです。北側の居室は戦後の改修が加わっていますが、書院座敷は、江戸時代初期に小早川秀秋の寄進により建立されたとの伝承を持っており、玄関は伏見城の遺構との言い伝えもあります。
寛政11年(1799)に刊行された『都林泉名勝図会』には、中門・待合を備えた露地のある「八幡泉坊昭乗翁故居」図、「松花堂全図」が掲載されており、松花堂庭園の内園は、これらの図をもとに、庭園を忠実に再現しようとしたものと評価されています。

泰勝寺の由来

 京阪電車八幡市駅から南へ徒歩約5分にある松花堂昭乗ゆかりの寺です。もとは昭乗や瀧本坊住職の墓地があった場所で、荒廃を惜しんだ臨済宗妙心寺派で当時円福寺(八幡市八幡福禄谷)の住職だった神月老師の発願のもと、当代有識の文化人らが「松花堂保存会」を結成し、これを契機に大正7年に建てられました。
それまで風雨にさらされていた墓地は、本堂の奥に整備され、中央に昭乗、向かって右に昭乗の師・実乗、左に弟子の乗圓の墓石があります。寺号の「泰勝寺」は、熊本市にあった細川家の菩提寺、泰勝寺から受け、本堂正面の方丈の額は九州より移されたもので、南宋随一の能筆家とされる無準師範の真筆です。寺には茶席「閑雲軒」がつくられています。懸け造りではありませんが、遠州好みの四畳台目の茶室で、当時、名だたる文化人たちがここで茶の湯を楽しみました。

「吉兆」との出会い

 吉兆の創業者、湯木貞一氏も、松花堂の風流をしのんで集まった文化人の一人でした。湯木貞一氏の著書『吉兆味ばなし』のなかに、昭乗の庵のなかに、四角い箱で深さは7,8センチ、なかを十文字に四つに仕切ったものがあり、「昭和のはじめに、松花堂のあるお寺が、これをおとき入れに使っていた、それを私が見てきて、これはいい、これに点心を入れて出そうとおもったのが、はじめです。」と書かれています。「松花堂のあるお寺」とは泰勝寺のことと考えられます。

現代に生きる松花堂昭乗の心

泰勝寺では、毎年11月に「昭乗忌」が営まれ、松花堂庭園でも毎年10月に「松花堂忌茶会」が開催されています。八幡市では今も松花堂昭乗の面影が大切にされています。

松花堂弁当一例

草庵松花堂

【参考文献】

  • 佐藤虎雄『松花堂』東洋美術文庫 1936年
  • 川畑 薫「松花堂昭乗と小堀遠州」『月刊 遠州』平成24年7月号~12月号連載
  • 中村昌生「松花堂の保存」(『日本美術工芸』413号)
  • 竹中友里代「八幡市の文化遺産と調査の歩み」(『八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図』京都府立大学文学部歴史学科)2010年
  • 『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告』第13冊 1932年
  • 湯木貞一『吉兆味ばなし 一』暮しの手帖社1994年