平成29年の市制施行40周年を機に創設した「徒然草エッセイ大賞」の第三回実施にあたり、特別講演会を開催いたしました。
(講演する茂木健一郎さん)
以下、要約したものをご紹介させていただきます。
今日はみなさんと、「すぐれたエッセイを書くことが、我々の脳にとっていかに大事なことか、素敵なことか」、そのことを確認しあえる時間が持てればと思っています。
吉田兼好の『徒然草』、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』、これらを日本の三大随筆と言いますね。この三人の作者を思い浮かべてみてください。みなさん、会ってみたいと思いませんか?
素敵なエッセイを書く人は、それだけ人生について深く考えていて、酸いも甘いも噛み分けています。生きる上での転機やたいへんなことがあった時、近くにいて意見や感想を聞けたら、どんなにいいだろうと思わせてくれます。
いいエッセイが書けることの一番のご褒美は、そういう素敵な人になれることです。人よりも深い視線で日々の生活を見て、心の深いところで物事を感じられるようになる。これ以上のご褒美ってありますか?
「徒然草エッセイ大賞」が八幡市の主催で行われているのは、素晴らしいと思います。石清水八幡宮にちなむ「第52段」は、教科書にも掲載され、『徒然草』のなかでも多くの日本人が知っています。そのゆかりの地でこうした賞が開かれることに、大きな意味を感じます。
そこで今日は、八幡市が描かれた『徒然草』の「第52段」にまつわる、おそらく世界でまだ誰も言っていない知見を発表しましょう。
仏教では、悟りを求めて修行する人を菩薩といいますが、その修行の段階は「五十二位」あるそうです。最高位の五十二位になってはじめて悟りが開けるのですが、そこに達したのはお釈迦様だけで、そのあとに続くいかなる高僧も、かなり下の段階までしかたどり着いていないらしいんです。
『徒然草』の「第52段」は、石清水八幡宮にお参りした仁和寺のある法師が、その上に本殿があることを知らずに、途中の極楽寺や高良神社を参拝しただけで帰ってしまう話でした。
どちらも「52」ですね。この数字の一致に、非常に深いものを感じませんか? 兼好法師が仕組んだ「ダヴィンチ・コード」のような暗号があるかもしれません(笑)。
古来、人間は「悟り」に憧れてきたわけですが、悟りとは結局、生きることの意味を知ることでしょう。仏教では、悟るためにさまざまな修行の仕方がありますが、エッセイの場合は、人生のさまざまな出来事をとことんよく見て、深く考え、細かく観察して書いていくことです。
たとえば喜怒哀楽といいますが、これは基本中の基本の4つであって、人間の感情にはそこに単純には当てはめきれない、さまざまな思いが数千、数万とあるでしょう。「かわいそう」と一口に言っても、いろいろな「かわいそう」があります。いたわり、同情、嫉妬、哀れみ……。バカにした気持ちがあるかもしれない。それを掘り下げて理解し、自分の言葉にして綴ることです。
脳科学との関係でいうと、人間は考えていることをアウトプットしていかないと、脳に思考を定着できません。書いて初めて、脳は自分と対話できるようになります。書かれたものは、自分自身とは違う存在になるからです。
対話できるようになると、脳の思考回路はどんどん発達していきます。すごい大作家でも名エッセイストでも、生まれたときからすらすら書き始めたわけじゃないことからもわかりますね。
自分が何を考えているかは、書いてみないと理解できません。書くこと以上にすばらしい脳トレはないんです。紙と鉛筆ならどこにでもありますから、安上がりなトレーニングです。
日本でエッセイというと、自分の考えを気の向くままに書く「随筆」を連想する人が多いでしょう。欧米では、論理的な文章、あるテーマを分析していく文章もエッセイです。心の中の思いを書いただけの文章は、英語で言うエッセイとはちょっと違うんです。
「つれづれなるままに~」で始まる『徒然草』に象徴的なように、日本のエッセイ文化では、三大随筆に代表されるすぐれた書き手がいて、ロジカルなものは入りませんでした。ということは、日本におけるエッセイは、日本人の間でとりわけ顕著に発達した文芸だと考えられます。これは世界に向けて、もっと発信すべき文化だと思います。
今年、年号が「令和」になりました。その出典は『万葉集』で、大宰府で貴族たちが梅の季節に花鳥風月を愛でて宴会をしたときの「梅花の歌」の序文でした。
現代日本に置き換えたら、贅沢にしなくても、梅や桜の季節にワンカップやつまみをコンビニで買って外に出れば、同じような景色を見たり感じたりできます。季節を愛でる心に変わりはありません。
日本には、1300年前にはもう、人の心や自然の移ろいを細かくとらえて文章にする伝統がありました。『万葉集』は、天皇陛下から、防人、農民までがそうして詠んだ歌を編纂し、現代に残されたものです。その『万葉集』から新しい年号が生まれた意味を、グローバル化の波のなかで進むべき道に迷っている日本人は今こそ、よくよく考えてみるべきだと思います。
世界にはさまざまな文化圏があり、そうした心の動きや自然描写をそのまま受け止めるのではなく、「いい、悪い」と価値判断してとらえる人たちもたくさんいます。その二元論を「神の意志」として掲げる文化に生きる人たちもいます。
日本人はそうではなく、見たもの、感じたものをありのままに表現してきました。現代のわたしたちが書くエッセイも、『万葉集』のように自然な心の動きを表現し、日本独特の感性を心に取り込んでいくことで、人生を豊かにするきっかけをつくれるはずです。
自分の心が今、何に感動しているかを対象化して認識することを、脳科学では「メタ認知」といいます。今、自分がどう感じているのかはもちろん、他人がどう思っているかまで推し量れるのが「メタ認知」です。自分がどう感じているかがよくわかるから、他人がどう感じているかも理解できるわけです。
人生を豊かにするには、「メタ認知」を発達させる必要があります。そのための最適な方法が「書くこと」です。
第三回の徒然草エッセイ大賞のテーマは「発見」ですね。以前にテレビ番組で「アハ!体験」という言葉を使いましたが、人間の脳には、気づきや発見は突然やってきます。そのためには、「書き続けること」が大切です。
お釈迦様の「悟り」が五十二位だという話がありましたが、これは想像を絶するような難行苦行を経て、ある日突然「悟り」が来たわけです。来るか来ないかわからないし、いつ来るかもわからない。だからこそ、つねに心を気づける状態に開いておくんです。
気づきや発見が来やすいのは、脳がリラックスしているときです。いくら懸命に考えても、その最中にはなかなか難しいものです。散歩をしているとき、お風呂に入っているとき、「そうか!」となる。しかも気づいたことに気づける心の余裕が大切なんです。
そういえば、吉田兼好も清少納言も鴨長明も「ヒマ人」な感じがしませんか? 宮廷で皇后とおしゃべりする仕事だったり、出家していたりする。すぐれた文章を書くには、「心の余裕」を生み出す必要があります。効率で書けるものではありません。
そもそも人生って、効率じゃないですよね。人生は何かのための道具じゃない。人生そのものが目的なはずです。「うちの子はグローバルな人材に育てたいんで、英語をやらせて、○○をやらせて……」というお母さんがいますが、むしろ親子で山に行ったり海に行ったりして一緒に過ごす時間をつくることが、子どもに人生の豊かさを伝える上で大切なことです。大人になって財産になるのは、気づきを伴うような「体験」の方です。
いいエッセイを書ける人は、素敵な人生を送っている人だと思います。効率とかスピードばかりを重視して生きていると、大切なものを見失ってしまいますよ。
自分と対話するために、エッセイを書きましょう。考えていること、感じたことをアウトプットすることで、いままでより広い世界、深い世界がわかるようになります。その感覚を持てれば、素敵な人になれます。
エッセイを書くご褒美は、「徒然草エッセイ大賞」で賞をもらうことではなく、素敵なエッセイを書くことで、先ほどの「第52段」の話のように、悟りへの階段を何段かでも登ろうとする、登れることだと思うんです。
心の細かな動きを忘れないようにしましょう。そのためのきっかけとして、「徒然草エッセイ大賞」をぜひ活用していただけたらと思います。
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