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YAWATA STORY 02 解説編

門前町 の詳しいものがたり

徒然草と八幡市

 『徒然草』は、鎌倉時代末期の随筆で、作者は兼好法師。枕草子とともに随筆文学の双璧といわれています。
 『徒然草』第52段には、石清水八幡宮に詣でた仁和寺の法師の話がでてきます。住まいの近くにあった仁和寺の僧のおかしな話のうちのひとつとして、年老いた僧が、長年念願であった石清水八幡宮へ参詣し、男山の山上に本殿があるのを知らず、麓にある極楽寺や高良神社を参拝して帰り、友人に、「聞きしに及ぶ尊さでした。それにしても、人々が山へ登るのは何かあったのだろうかと思いましたが、私の目的は神に参拝することなので山までは見ませんでした。」と語った、というものです。ちょっとしたことにも先達が必要、と兼好法師は結んでいます。
これは、明治時代の神仏分離令で失われるまでは、男山の麓に壮麗な社寺が建ち並んでいたことを示すエピソードでもあります。

門前町の成り立ちと範囲

 男山の北から東麓は、現在も八幡市の中心地域ですが、平安時代前期に石清水八幡宮寺が成立することによって、門前町としての開発が進みます。
現在、八幡市域となっている三川合流域は、かつては平地の標高が低いため湿地が多く、人が住みにくい場所であり、八幡神の遷座前には、男山南部の東麓や、男山より東の低地の微高地上などに集落が点在するだけでした。しかし、八幡神の遷座後には、宿院(山麓の高良社・極楽寺周辺)周辺とその北側に、祇官家(石清水八幡宮の長官を務める家系)の邸宅ができ、木津川河川敷にも平安時代の遺跡が確認されています。
門前町には、すでに平安時代中期において、宿院河原に「午の市」「子の市」と呼ばれた市場が開かれていたといいます。石清水八幡宮の権力が高まる平安時代後期には、園町(現在の園内)など、東にも門前町の範囲が広がり、鎌倉時代には、現在「東高野街道」と通称されている門前町を南北に走る道路に沿って、南へ広がります。善法律寺のもととなる善法寺家が馬場町へ移転したこと、正法寺ができたことなどが、門前町が広がるきっかけとなったようです。
石清水八幡宮の権力が大きくなった中世には、荘園が瀬戸内海沿岸一円に広がっていたといい、門前町の住民も増え、江戸時代にまで踏襲される「東高野街道」に沿った町並みが形成されていきます。神應寺山門前にある日本最大の五輪塔、航海記念塔は、そうした歴史を伝えるモニュメントです。
石清水八幡宮の神領をここでは「門前町」と呼んでいますが、学術的には「境内町」や「境内都市」などとも称されています。

江戸時代の門前町

 門前町は内四郷(常盤郷・科手郷・山路郷・金振郷)と外四郷(川口郷・美豆郷・際目郷・生津郷)の「八幡八郷」と呼ばれ、都市的な町場として発展します。縁辺に禅宗の寺である単伝庵や円福寺ができ、明治の神仏分離令で多数の寺院が退転するまでは、一大宗教都市として栄えました。浄瑠璃「引窓」や、謡曲「女郎花」、高名な世阿弥がつくった「弓八幡」など、数々の芸術作品の舞台となりました。

男山四十八坊の跡

 神仏習合の石清水八幡宮では、僧侶が神に仕えていたので、男山に「坊」と呼ばれた小さな寺が数多く造られました。江戸時代には山上から山下までの間、余すところなく坊が立ち並び、「男山四十八坊」と呼ばれ、数々の絵図に描かれました。徳川家の祈願所である「豊蔵坊」、足利家の祈願所である「橘本坊」のほか、有名な坊としては、松花堂昭乗ゆかりの「瀧本坊」、「泉坊」があります。泉坊は昭和52年に指定を受けた国の史跡「松花堂およびその跡」の一部です。他にも太子坂にある「萩坊」には狩野山楽が住んだとの由来があり、「大西坊」は、大石内蔵助の実弟が住職であり、その跡を継ぎ住職となった内蔵助の養子・覚運が、赤穂浪士の討ち入りにひそかに協力したことでも知られています。覚運の墓は、善法律寺に現存しています。

足利義満と善法律寺

 石清水八幡宮の長官を務めた家は、現在の宮司家である田中家のほか、平安時代後期に分かれた善法寺家があり、江戸時代末までその勢力を二分していました。田中家は天皇家の、善法寺家は将軍家の御師(祈祷師)を務めており、時の権力者に非常に近い存在だったのです。第27代長官を務めた善法寺 宮清の邸宅が寄進され、寺となったのが、八幡馬場にある「善法律寺」です。宮清の曾孫にあたる良子は、室町幕府第2代将軍・足利 義詮に嫁いで 3 代将軍・足利 義満を産みました。南北朝の合一を果たしたことで有名な足利 義満は、当時、栂ノ尾の本茶に対して非茶といわれた宇治に七茶園を定め保護し、宇治茶のブランド化の立役者ともいえる人物です。

徳川家康とお亀の方

 お亀の方は正法寺の大檀那であった志水家の出身。徳川家康の側室となり、徳川御三家の一つ、尾張藩の祖となる徳川義直を産みました。その後、お亀の方は出家して相応院となり、正法寺が相応院の菩提寺となったことで、近世を通して尾張藩の厚い庇護を受けました。
お亀の方が徳川家康に嫁いだエピソードとして、子どもを行水させていたところに家康公の大名行列が通りかかり、慌てて子どもごとたらいを持ち上げたお亀の方を目にした家康公がその怪力に驚き、惚れ込んで側室に招いた、という伝承があります。
お亀の方は、時代の大転換期にあって、松花堂昭乗らとも結んで、八幡神領の保護に腐心したと伝わります。お亀の方の母は、宇治の茶師・尾崎坊家の出身で、お亀の方の取り立てで尾張徳川家にも宇治茶が進上されたといいます。

神仏分離と現在

 明治政府の神仏分離政策により、石清水八幡宮の境内にあった仏教施設や仏像、仏具などは悉く破壊・売却されました。それを憂いた当時の人々の尽力により、八角堂、草庵「松花堂」・泉坊書院だけは、八幡市内の別の場所に移され、現存しています。仏像では、八角堂内に安置されていた丈六の阿弥陀如来坐像と、元三大師堂にあった元三大師坐像が正法寺に(元三大師坐像は京都国立博物館に寄託)、開山堂にあった行教律師坐像は神應寺に、極楽寺にあった宝冠阿弥陀如来坐像、八幡宮境内某所にあった地蔵菩薩坐像(伝 八幡大菩薩像)は善法律寺に、狩尾社にあった天部形立像は橋本の西遊寺に、それぞれ移されました。
市外に流出したものは膨大で、豊蔵坊にあった東照神君(徳川家康)像は等持院(京都市)に、太子堂とその中にあった聖徳太子立像は国分聖徳太子会(滋賀県大津市)に、護国寺の薬師如来立像と十二神将像は東山寺(兵庫県淡路市)に、極楽寺の丈六・阿弥陀如来坐像は誓願寺(京都市)にそれぞれ移され、現存しています。
八幡のまちには神仏分離の痕跡が今も残りますが、文化財を護り歴史を伝えようとした人々の思いも深く残されています。

エジソンと八幡市

 エジソンは著名なアメリカ合衆国の発明家です。電球の実用化のためにフィラメントに最適な材料を探し求め日夜研究を進めるなか、竹に行き当たり、世界中を探した結果、八幡の竹が使われました。男山の真竹が 1000 時間以上も輝き続けたといいます。石清水八幡宮にはこれを顕彰してエジソン記念碑が建立されました。記念碑は戦時中も神社により守られ、戦後にマッカーサーが敬意を表したと伝わっています。

エジソン記念碑

安居橋

【参考文献】

  • 蔵田 敏明ほか『新撰 京の魅力 徒然草の京都を歩く』淡交社 2005年
  • 藤本史子「中世八幡境内町の復原と都市構造」(『年報 都市史研究』7)1999年
  • 鍛代敏雄「中世石清水八幡宮寺の組織と祭祀」(『石清水八幡宮境内調査報告書』八幡市教育委員会)2011年
  • 『歴史たんけん八幡~伝えよう!八幡の歴史と文化~』八幡の歴史を探求する会 2015年
  • 『徳川家ゆかりの名刹 八幡・正法寺の名宝展~現代に息づく仏たち~』2004年 八幡市立松花堂美術館
  • 『未来を照らした男 エジソン』エジソン彰徳会 2014年