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YAWATA STORY 03 解説編

茶文化 の詳しいものがたり

松花堂昭乗とは

 松花堂昭乗は、江戸時代の初めの頃、石清水八幡宮のある男山に住んでいた僧侶です。元の名は「昭乗」といい、男山の中腹に建っていた瀧本坊という寺の住職を勤めていました。住職を引退し「松花堂」という小さな堂(庵)を建て、そこで隠居生活を送ったために「松花堂昭乗」と呼ばれています。
昭乗の生年は1582年とも1584年ともいわれており、出身は大阪の堺または奈良の春日と伝わりますが、出自は不明で、父は豊臣秀次、近衛前久、足利義昭などの説があります。
昭乗は幼少の頃出家して男山に入り、瀧本坊実乗の弟子となり、真言密教の修行に励み、阿闍梨という最高位にまで昇りましたが、特に書道にすぐれ、近衛信尹・本阿弥光悦と並んで「寛永の三筆」と称されています。

寛永文化

 昭乗が活躍した寛永年間(1624~1644)は、桃山文化の特徴を受け継ぎ、元禄文化への過渡的役割を果たしたといわれる「寛永文化」が花開いた時代です。熊倉功夫氏によると、寛永文化とは、王朝以来の和学の伝統や美意識、東山文化以来の武家文化の伝統、さらに儒教など新しく移入された中国文化や南蛮文化等、系譜を異にする文化が、互いに重なり合って一箇の文化として現れたもので、洗練された「奇麗数寄(きれいすき)」、あるいは「きれいさび」とよばれる美意識であり、天皇から都市民の下層部分まで包み込むかたちでの、真の総合化がはかられた文化といわれています。

小堀遠州と松花堂昭乗

 小堀遠州の本名は、小堀政一。生まれは現在の滋賀県、近江小室藩主(1万2千石)で江戸初期の大名茶人。幼少の頃より父・新介正次の英才教育を受け、千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となりました。慶長13年(1608)駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより「遠州」と呼ばれます。
生涯に400回あまりの茶会を開き、招かれた人々は大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層に渡り、延べ人数は2千人に及びます。書画、和歌にもすぐれ、王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「きれいさび」という幽玄・有心の茶道を創り上げました。
 遠州は、後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物となり、また作事奉行として桂離宮、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築・造園にも才能を発揮しました。大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院などは、代表的な庭園です。
 昭乗が催した茶会は、寛永8~10年の30回分しか記録がありませんが、寛永9年(1632)に江月和尚らと共に遠州が参加していることが知られます。この茶会で使われた大名物・国司茄子茶入は現在、大阪市の藤田美術館にありますが、箱書付は遠州によるものです。瀧本坊に伝わる茶道具の目録「瀧本坊蔵帳」の記載品のうち、遠州の箱書付や添え状があるものは半分以上もあるということです。

瀧本坊と閑雲軒

 瀧本坊は、神仏習合の宮寺であった石清水八幡宮の山の中に、中世以降造られた寺院で、「男山四十八坊」と称された宿坊のひとつです。明治時代の神仏分離令により現在は跡地に石垣だけが残されています。昭乗が住職を勤めた寛永年間、瀧本坊に茶室「閑雲軒」が造られました。
 閑雲軒は、当時から有名な茶室であったので、絵図や茶室の立体図である「おこし絵図」に記録が残されています。瀧本坊の建物は南北に長く連なっており、南に玄関があります。南の客殿と、北に四室連なる書院の間に、東に飛び出して作られたのが茶室・閑雲軒です。幕末に書かれた『男山考古録』に、「寛永年中、松花堂昭乗と小堀政一相語らひて好み営れし室也」と書かれています。安永2年(1773)の火事で焼失したあと、閑雲軒は再建されなかったようです。

発掘された「空中茶室」閑雲軒

 平成22年に発掘調査が行われ、瀧本坊全体の建物の配置とともに、閑雲軒がかつてあった場所が明らかになりました。まず平坦面を調査し、南の玄関側には本堂の跡、北には平坦面の中央に漆喰の瓢箪形の池の跡が見つかりました。さらに、絵図をもとに東の崖の斜面を調査した結果、建物の柱を支えた礎石の列が30m以上に渡って見つかり、懸け造りの客殿があったことがわかりました。閑雲軒は長さ7mもの柱で支えられ、茶室の床面のほとんどが空中に迫り出した「空中茶室」ともいうべき構造であったことが判明したのです。
 閑雲軒が懸け造りであったことは、文字史料からわかっていましたが、7mもの柱で支えられ、床面のほとんどが空中に浮いているような構造であったことは、発掘調査ではじめて明らかになり、関係者を驚かせました。茶室には露地庭がつきものですが、躙り口までの空中を歩くような廊下を露地に見立てた閑雲軒は、当時としては画期的な茶室であったといわれています。

松花堂庭園

 松花堂庭園の外園には3つの茶室があります。昭和38年に内園を買い取った実業家の塚本清(素山)氏により整備されました。内園を囲むように周囲の水田を買い足して庭園とし、茶室3棟と展示施設を備えた鉄筋2階建ての建物が造られました。茶室「松隠」と「梅隠」は、茶室研究の第一人者である中村昌生氏の設計・施工によるものです。昭和52年に、これらを八幡市が公有化しました。その後、南側の土地を買い足し、平成14年に松花堂美術館が開館し、八幡市立 松花堂庭園・美術館となり今に至ります。

松花堂庭園の茶室

 「松隠」は庭園の一番奥に、南向きに建つ茶室で、入母屋造銅板葺に庇がつきます。玄関、八畳の広間、閑雲軒を再現した四畳台目の茶室と水屋からなります。懸け造りという茶室の珍しいあり方を再現するために、ここでは建物の床を高くして茶室の三方に縁を回らし、縁からにじり入る形式が採用されています。躙り口を壁面の中央寄りに開け、台目構えの点前座を客座の中央部においた間取りは、遠州の独自な工夫を示しています。屋根裏の突上窓を含め、十一の窓が開けられています。床の框(かまち)は黒塗りになっており、格式を漂わせます。
「梅隠」は松隠の南東に建つ茶室で、千宗旦好みの四畳半茶室を再現したものです。千利休の孫・宗旦も、本阿弥光悦や松花堂昭乗と交流を深めていた寛永の文化人でした。宗旦の茶の湯は、利休の茶の侘びた性格をもっぱら受け継いでおり、修道的で簡素に徹した宗旦の茶の姿が、この茶室にはもっとも深く映し出されているといわれます。床は土床といい、普通は畳を敷く所まで土を塗っており、框も付けられていません。茶室の入り口は躙り口でなく貴人口とされ、そのかわり外に土間が付属し、そこに潜りがあります。これは露地の中門の形式の一つである「中潜り」に相当します。内部は連子窓のほか、大小2つの下地窓があるだけで、宗旦の茶室の特色がよく出ているといわれています。
もっとも南方にある竹隠は、有名な数寄屋大工、木村清兵衛氏の考証による茶室を刻銘に写したもので、四畳半茶室としては他に見られない琵琶床を配し、本席からは、美しい金明孟宗竹を見ることができます。

書院・草庵松花堂

抹茶・銘「松花堂」「浜乃風」

【参考文献】

  • 熊倉功夫『熊倉功夫著作集 第5巻 寛永文化の研究』思文閣出版 2017年
  • 小堀宗慶『小堀遠州の美を訪ねて』集英社 2010年
  • 川畑 薫「松花堂昭乗と小堀遠州」『月刊 遠州』平成24年7月号~12月号連載
  • 『石清水八幡宮境内調査報告書』 八幡市教育委員会 2011年
  • 『史跡 松花堂』財団法人やわた市民文化事業団 1997年
  • 中村昌生『茶室を読む 茶匠の工夫と創造』淡交社 2002年