石清水八幡宮MAP

石清水八幡宮と男山
上空から見た石清水八幡宮 本社

1200年近くの歴史を持つ石清水八幡宮は、長い間、「国家第二の宗廟」として、日本で伊勢神宮に次ぐ重要な神社と位置付けられてきました。「宗廟」とは祖先を祀る廟という意味で、八幡大神(はちまんおおかみ)(以下「八幡神(はちまんしん)」と表記)が天皇の祖先と考えられていることによります。八幡神は、京の都と国家を護る神として、平安時代以来、朝廷や時の権力者から厚く信仰されてきましたが、鎌倉時代以降は庶民にも八幡信仰が広がり、日本で最も広く信仰された神といわれています。

創始

平安京の遷都から半世紀余りのち、奈良大安寺の僧であった行教が、八幡神を男山に勧請したのが石清水八幡宮のはじまりです。貞観元年(859)、行教が九州の宇佐八幡宮に参詣したところ、八幡神から、都の近くに移座し国家を鎮護しよう、と託宣(たくせん)を受けました。託宣に従い九州から都へ向かい戻ると、山崎の地で、男山に鎮座する旨の託宣を再度受けたことが、貞観5年(863)正月の年記がある縁起に書かれています。男山に八幡神を遷した行教は、朝廷に報告し、翌年には清和天皇の命により社殿が造営されたと伝えられています。

神仏習合の宮寺

宇佐八幡宮の八幡神は、平安時代には仏教との習合が進み「八幡大菩薩」と呼ばれており、石清水八幡宮は神社と寺が一体となった神仏習合の「宮寺(ぐうじ・みやでら)」でした。社から発給された文書には「石清水八幡宮寺護国寺」とあり、本社の北東の山腹にあった護国寺が、一山の本堂との地位をもって全てを取り仕切っていました。石清水八幡宮の持つ影響力は大きく、神仏習合の発展と八幡信仰を日本中に広める上で大きな影響を及ぼしましたが、明治初頭の神仏分離令により、仏教色が完全に取り除かれ、仏教施設のほとんどが破却、または移転されました。

境内の構成

天皇・上皇など朝廷からの厚い信仰を土台に、歴史を通じて各時代の時の権力者から信仰され、寄進などによって山内には数多くの社や堂塔などが建てられました。南面する本社がある標高約120mの峰から、北東へ下がる尾根の先端に護国寺があり、本社の南側には、鎌倉時代頃までに大塔や小塔、八角堂などの主要堂塔が造られました。それらの下方には、社僧が居住した坊が立ち並んでおり、江戸時代には「男山四十八坊」と呼ばれていました。東側の山裾に、高良社のほか、極楽寺・大乗院といった祠官家などによる寺院が建立され、その外側には東高野街道に沿って門前町が形成されました。

文化財

平成24年(2012)、境内が国の史跡に指定され、平成28年(2016)には、本社十棟 附(つけたり)棟札三枚が国宝に指定されました。華麗な欄間彫刻で知られる本社は17世紀に建てられたもので、八幡造の数少ない現存例の1つです。本社まわりにある摂社・若宮社・若宮殿社や、末社・水若宮社、住吉社は重要文化財に指定されています。山内の史跡・松花堂跡では、現在松花堂庭園に移築されている草庵松花堂の跡地や露地遺構が見られます。

石清水八幡宮の祭神と歴史
石清水祭・神幸の儀 石清水祭・絹屋殿著御の儀 石清水祭・奉幣の儀 石清水祭・放生行事
祭神

石清水八幡宮は、日本と皇室の守護神である八幡大神(はちまんおおかみ)を祀っています。八幡大神は、第15代天皇として数えられる応神天皇が神格化された存在であり、その母である神功(じんぐう)皇后と、海にまつわる女神である比咩(ひめ)大神とともに、一体的存在として信仰されています。

八幡大神は、859年に僧・行教(ぎょうきょう)によって、九州の宇佐八幡宮から男山に勧請され、860年に朝廷により建てられた社殿に祀られました。八幡大神は皇室の祖先であると考えられていたため、天皇や上皇が崇拝し、平安時代から現代まで240回以上の行幸・御幸がありました。武家政権を樹立した源氏も八幡大神を氏神として厚く信仰し、武士が各地に八幡神を勧請したため全国に広がりました。

日本では奈良時代以降、神道と仏教を融合調和する神仏習合の信仰が強まりますが、八幡神はいち早く神仏習合を果たした神で、石清水八幡宮に勧請された当時は「八幡大菩薩」と呼ばれていました。ところが明治維新ののち、政府が発した神仏分離令により、二つの宗教は分離されることとなりました。菩薩号は廃され「八幡大神」と呼ばれるようになり、建物や祭具など仏教に関するものは徹底的に取り除かれましたが、神仏和合の精神は今に受け継がれています。

祭典

石清水八幡宮の最も重要な神事は、9月15日に行われる勅祭石清水祭です。奈良・春日大社の春日祭、上賀茂神社・下鴨神社の葵祭とともに三大勅祭のひとつであるこの神事は、貞観年間にはじめられた「石清水放生会」として千年以上の長い歴史があります。真夜中、山上の御本殿から三基の御鳳輦(ほうれん)がお供の列を従え、提灯の灯りを頼りに山を下る「神幸の儀」。天皇の使いである「勅使」が明け方の静寂のなか旧儀により幣帛(へいはく)を奉る「奉幣(ほうべい)の儀」。祭場を放生(ほうじょう)川に移して魚鳥を放つ「放生行事」で構成され、放生行事は宇佐八幡宮の時代から伝わる仏教儀式がもとになっているといわれます。頓宮に供えられる「供花神饌(きょうかしんせん)」も仏教的といわれ、石清水八幡宮にのみ古来伝わる特徴的な神饌です。これらの祭典の装束や作法は古式に則っており、平安絵巻さながらの「動く古典」といわれています。