八幡のストーリーをもっと詳しく知る。
YAWATA STORY 01
解説編
はちまんさん の詳しいものがたり
石清水八幡宮成立前史
日本の伝統的な神祇信仰と、大陸伝来の仏教が、日本列島において交じり合い、生み出された宗教現象を「神仏習合」といいます。朝鮮半島などの仏教の影響を色濃く受けた九州・大分県の宇佐八幡宮に神宮寺(神社に付随して建てられた寺)ができたのは、日本の神仏習合の最も古い例のひとつです。宇佐八幡宮に祀られていた八幡神は、東大寺大仏建立にあたり託宣を行い、天平勝宝元年(749)には大仏造立援助のため奈良の都に上り、東大寺に祀られたのが現在の手向山八幡宮です。神護景雲3年(769)には、道教事件が起こります。僧・道教が宇佐の八幡神の託宣を利用して皇位につこうとしますが、宇佐まで託宣を聞きに行った和気清麻呂が、皇位には必ず皇族の血筋の者をたてよ、という託宣をもたらし、道教の野望を阻んだことで、八幡神の神威が高まったといわれています。和気氏の氏寺だったと伝わる足立寺(そくりゅうじ)の跡は、奇しくも八幡市にあります。
男山の地形
石清水八幡宮は、八幡市域北西部、淀川の岸から聳え立つ「男山」の山頂および南側尾根筋から、東の山裾にかけて境内としています。本殿辺りの標高は約120m、東側低地との比高差は110m程で、「男山丘陵」と称される低山地です。
男山丘陵は、南北に連なる生駒山脈から北へ延びる丘陵であり、基盤の地質は大阪層群を基本としますが、北端の男山は、淀川を隔てた天王山と同じ丹波帯(堆積岩)であり、北辺及び北東側は、急斜面の切り立った山容を呈しています。西側斜面は比較的緩やかに下り枚方台地に至りますが、この西側山麓が、古代以来山城国と河内国の境とされてきました。
平安京との関係
平安京、のちの京都からは南南西方向に位置しています。男山への選地は、京の北東の鬼門を守護する滋賀県大津市の延暦寺と対をなし、平安京の護りを強化する意図があったと言われています。
古代以来、淀川の男山と大山崎町・天王山に挟まれた地点から、近代まで遊水池であった巨椋池周辺は、瀬戸内海海路から淀川を遡上する水上交通の終着点でした。平安京に遷都されたのち、大山崎町にあった「山崎津」が主に都の外港としての役割を担いますが、平安時代中期~後期には京都市内の淀や鳥羽周辺の開発が進み、これ以降、山崎と淀が京の都への交通・物資の流入口となりました。明治時代の初めまでは、桂川・宇治川・木津川は淀周辺で合流しており、八幡の地は、都の南の門戸ともいうべき交通の要地として発展してきました。
石清水八幡宮の成立
石清水八幡宮の創始は、縁起「護国寺略記」(石清水八幡宮文書・重要文化財指定)によると、貞観元年(859)、大安寺の僧侶・行教が宇佐八幡宮で、都の近くに移り都を守護するとの神託を受け、男山山頂に「八幡大菩薩」を勧請、翌年朝廷によって社殿が造営されたと伝えられます。
この勧請は、太政大臣・藤原良房が、孫にあたる幼少の清和天皇を、反対勢力を抑えて即位に導いたことにより、即位の正当性を示すため、政治的に計画したものではないかとの説があります。
神仏習合の宮寺
八幡神は奈良時代末には菩薩号を名乗られ、以降「八幡大菩薩」と広く尊称されるようになります。石清水に遷座する頃には、完全に仏教との習合が行われており、明治維新まで「石清水八幡宮寺」と称されました。本殿の北東の山腹にあった「護国寺」が一山を管掌し、政令はすべて護国寺から出されていましたが、一山の本堂とされた地位は、室町時代以降有名無実化します。
組織は、祠官(しかん)【検校(けんぎょう・鎌倉以降常置)・別当など】・三綱【上座・寺主・都維那】・所司諸職【執行職・御殿司・入寺など】といった要職を僧侶が占め、神官は従属的な存在でした。祭祀もほとんどが僧侶中心に仏式で行われていました。
発展
八幡大菩薩は、石清水八幡宮に遷座する前には応神天皇とされており、平安時代中期には伊勢神宮に次ぐ天皇家第二の宗廟と位置付けられ、朝廷から厚い信仰を受けました。武士の台頭に伴い、清和天皇に繋がる源氏が宗廟(氏神)とするに至り、代々の武家の棟梁に手厚く遇されました。石清水八幡宮で元服したことで知られる八幡太郎こと源
義家は、鎌倉幕府をひらいた源 頼朝の祖先です。
京都に幕府を置いた源氏系統の足利家とも親密で、室町三代将軍・義満の母は祠官家の善法寺家出身です。
天下人による信仰
戦国時代の頃、八幡宮本殿が応仁の乱以来傷んだ箇所が修理されず荒廃していると聞いた織田信長は、八幡造りの二つの屋根に架ける「黄金の樋」を寄進したと『信長公記』に伝わります。熱田神宮と同じ、磚を細かくはさんで築いている築地塀も寄進しました。
豊臣秀吉も石清水八幡宮を厚く信仰しました。豊臣秀頼は、父の信仰を継いで石清水八幡宮の大塔などを建て替えたほか、本殿や廻廊を新しく建て直したと伝わります。
徳川家康は、八幡市内にある正法寺にゆかりのお亀の方を側室とし、八幡宮神領の保護をはかりました。平成28年2月に国宝に指定された本社は、三代将軍・徳川家光により建てられたものです。本社は日光東照宮とよく似た絢爛豪華な欄間彫刻で飾られました。正法寺の本堂内陣も日光東照宮の内陣の彩色をした工人が手掛けたものです。
境内堂舎の展開
天皇家や時の権力者の寄進などによって、山内には数多くの堂塔などが建てられました。中央尾根北端の最高所に、南面する本殿があり、ここから北東へ下がる尾根の先端には行教が建立した護国寺が立地していました。本殿から南へ延びる参道の西に、比較的広い平坦地を造成し、平安時代末から鎌倉時代に大塔や小塔、八角堂など主要堂塔が造られました。本殿から下った東側山腹の上位には、宝塔院などの仏塔が建てられ、それらの下方には、社僧が居住した坊が立ち並んでいました。東側の山裾には高良社のほか、極楽寺・大乗院といった祠官家などによる寺院が建立されました。
全体として古代寺院的伽藍配置はとらず、延暦寺や金剛峰寺などの山岳寺院的な、尾根筋や斜面に形成された平坦地に、社寺や坊舎が建ち並ぶ配置を呈しています。
明治時代初めの神仏分離令と廃仏毀釈によって、これら仏教施設のほとんどが撤去、または移転され、今日の姿となりました。
神事と神楽
石清水八幡宮では、平安時代前期に皇室の神事として始まった「放生会」、鎌倉時代以来、将軍家のために始められた「安居神事」が有名な神事でした。放生会は、戦時中の中断を受け、現在、勅祭の「石清水祭」として受け継がれています。このほか、942 年にはじめて行われ、平清盛が本殿で舞ったエピソードがよく知られる「臨時祭」があります。葵祭が「北の祭り」と呼ばれたのに対し、臨時祭は「南の祭り」と呼ばれました。
石清水祭
石清水八幡宮社殿
【参考文献】
- 日本歴史地名大系第26巻『京都府の地名』平凡社 1981年
- 岡田精司『京の社―神と仏の千三百年―』塙書房 2000年
- 飯沼賢司『八幡神とはなにか』角川選書 2004年
- 『シンポジウム三大八幡宮―その町と歴史―資料集』八幡市教育委員会 2009年
- 『石清水八幡宮境内の遺跡(シンポジウム「神仏習合―日本文化の源流と八幡信仰」資料集)』八幡市教育委員会 2010年
- 『石清水八幡宮境内調査報告書』八幡市教育委員会 2011年