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YAWATA STORY 05 解説編

3つの川 の詳しいものがたり

二宮忠八と飛行神社

 二宮忠八は、慶応2年(1866)愛媛県八幡浜市生まれ。子供のころ凧を作るのがうまく、作った凧が「忠八凧」として有名になるほどでした。
明治20年(1887)に丸亀の軍隊に看護兵として入営しますが、陸軍従軍中の明治22年、高台にいて真横からカラスが揚力で滑空する姿を見て「飛行器」の原理を着想し、わずか2年後の明治24年(1891)4月29日、丸亀練兵場の広場で、ゴム動力による「カラス型模型飛行器」の飛行に成功します。世界でもはじめての快挙でした。
その後、人が乗れる「玉虫型飛行器」の開発に着手、明治26年(1893)に設計が完了し、軍に研究開発の補助を願い出ましたが叶わず、自力で開発することを決意します。
明治33年(1900)には八幡の地、今の飛行神社の場所に住み始めます。木津川の河原が広く、飛行器の実験場に最適であると考えたからで、橋本に「二宮忠八工作所」を建て、開発に努力しました。しかし、明治36年(1903)にライト兄弟が有人飛行に成功したことをその5年後に知り、研究・開発をすべて断念してしまったのです。
その後、世界は飛行機の時代となり、飛行機による犠牲者が多くなったのを悼み、大正4年(1915)、忠八は資材を投じて自宅に神社を創建しました。これが飛行神社の始まりです。

三川合流の地形と山崎の橋から渡しへ

 桂川・宇治川・木津川の三つの大きな川は、八幡市の北西で合流し、淀川となって大阪湾に流れ出ます。各河川の流路は長い歴史の間に変わっていますが、流出部の地形は変わりなく、京都盆地から流れ出る川は、標高の低い「淀」周辺に集まり巨椋池となり、そこから男山と天王山の間を通って大阪湾に流れ出ていました。
奈良時代、各地で土木工事を指導し民衆を助けた僧・行基が、「山崎橋」を架けました。橋は現在の八幡市と枚方市の境あたりに架けられたといわれ、このため八幡市側の地名は「橋本」となりました。枚方市にある久修園院ももとは行基が建てた寺です。
山崎橋はたびたびの洪水で流され、11世紀に廃絶します。橋が失われた後は、昭和37年(1962)まで渡し舟が運行されていました。室町時代から江戸時代には、対岸の山崎より石清水八幡宮で使われる灯明用の油を大量に運んだため「灯油の渡し」とも呼ばれました。

奈良時代の木津川

 八幡市内を流れるのは、伊賀盆地から流れ出る木津川です。暴れ川であった木津川は流路を度々変えており、奈良時代の頃は内里村(現在の大字.内里)の西側を通っており、ここが奈良時代に久世郡と綴喜郡の境界となりました。木津川は肥沃な土を運んでくるため、このころすでに周辺は水田や畑に開発されていました。収穫された野菜や穀物は、川を使って奈良や京都の都に運ぶのに便利であったことから、八幡市の上奈良には天皇家の菜園である「奈良の御薗」がつくられたことが、平安時代の書物『延喜式』からわかります。その近くに造られた御園神社では、野菜を飾り付けた神輿で有名な中世に起源をもつ祭礼が伝えられており、「御園神社のずいき御輿・天狗・獅子」として京都府無形文化財に登録されています。

淀川交通と京街道

 木津川の流路は、近世の初めころには現在の様子となり、淀へ向かって河道を固定したのは、淀城を築いた豊臣秀吉といわれます。堤の上の道は「京街道」と呼ばれ、江戸までつながる東海道の一部でもありました。橋本は東海道の枚方宿と淀宿の間にあり、宿場町として栄え、明治以降には橋本遊郭ができたことで周辺は大いににぎわいました。

三川合流部と戦乱の舞台

 河川交通では京の都からの唯一の出口で、陸上交通でも重要であった三川合流部は、数々の合戦の舞台となりました。
天皇家が南朝と北朝に分かれて戦った南北朝時代の正平7年(1352)、「八幡合戦」と呼ばれる大きな合戦があったと『太平記』に書かれています。南朝方の後村上天皇らが石清水八幡宮周辺に立てこもり、洞ヶ峠に布陣した足利義詮を大将とする室町幕府との戦闘が市内で繰り広げられました。
戦国時代には、天正9年(1582)、織田信長が本能寺の変で討たれた直後、豊臣秀吉が明智光秀を討った「山崎(天王山)の合戦」の舞台となります。奈良の郡山城主であった筒井順慶の出陣を、明智が洞ヶ峠で待っていましたが、結局、筒井順慶は秀吉に味方しました。このエピソードから、日和見することを「洞ヶ峠を決め込む」というようになりました。
幕末には、幕府側の軍事拠点として、現在の京阪電車橋本駅前に橋本陣屋と楠葉台場がつくられます。大政奉還の翌年、慶応3年(1868)正月に起こった鳥羽・伏見の戦いでは、戦場となった八幡のまちの北半が火災に見舞われ、多くの家屋が焼失しました。

上津屋「流れ橋」と浜茶の生産

 八幡の東の村、上津屋は、一つの村が木津川をはさんで両側に分かれており、八幡側の浜上津屋は幕府領を統括した庄屋・伊佐家が村を治め、その住居は重要文化財となっています。二つの集落を結ぶため、渡し船が活躍しましたが、戦後の昭和 28 年(1953)、渡し船の廃止により両村を結ぶための橋が架けられました。戦後間もない時期にいかに安価で復旧しやすい橋をつくるか知恵をしぼって設計されたのが、最初から流れることを計算して造られた上津屋橋でした。今では通称の「流れ橋」のほうが有名になっています。
東部の村では中世以来、綿の栽培が盛んで、安産祈願で有名な「岩田帯」はこの地域で生まれたものです。江戸時代後期には茶栽培がはじまり、河川敷に現在広がる茶畑と流れ橋の景観は、「流れ橋と両岸上津屋・浜台の〈浜茶〉」として、日本遺産第1号「宇治茶 800 年の歴史散歩」の構成要素のひとつに認定されました。

木津川の付け替え

 明治元年(1868)の大水害を受けて、明治政府肝いりの事業として上津屋、科手間の木津川の付け替え工事が着手されました。八幡の町民が工事に動員され、これまで住居や田畑だったところを掘削し、明治3年(1870)1 月に完成しました。その後、宇治川も付け替えられ、木津川の背を割るように堤防が備えられ「背割堤」ができました。もとは松並木が有名で、桜が植えられたのは昭和50年代のことです。谷崎潤一郎の小説「蘆刈」の冒頭の場面は、三川合流部の中洲が舞台となっています。

背割堤

流れ橋

【参考文献】

  • 『歴史たんけん八幡~伝えよう!八幡の歴史と文化~』八幡の歴史を探求する会 2015年