八幡市のあらまし
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八幡の歴史は古く、市域の南西部丘陵地から約2万年前の石器が出土しており、すでに旧石器時代には人が生活していたことがうかがわれます。また、弥生時代や古墳時代の遺跡などが市域全域に分布しており、古代から開けていたことを示しています。
古代から近世に至るまで、交通手段として木津川や淀川の水路の利用が高まるとともに、陸路として古山陰道、東高野街道、京街道が整備され、本市は山陰や奈良、京都へ通じる交通の要衝として重要な役割を担ってきました。
貞観元年(859年)、平安京を鎮護するため、九州から八幡神が勧請され、男山に石清水八幡宮が建立されてからは、その門前町として発展しました。
文化面では、江戸時代初期、寛永の三筆の一人と称される松花堂昭乗が石清水八幡宮の坊舎に住まいし、当代の著名な文人たちと集い、書道・茶道・和歌などを介して文化の発信基地としても高い地位を占めていました。
江戸時代から明治期にかけては、農作物の開発や栽培が盛んとなり、京都・大阪という大消費地を抱え、豊かな田園の広がる近郊農村としても発展しました。また、門前町としての規模的な拡大こそなかったものの、商業においても安定した発展を続けてきました。
明治の末期になると市域の北端を通る鉄道が開通し、交通手段の発達に伴って、淀川水運の要衝としての本市の役割は次第に低下しました。
明治22年、町村制施行によって、現在の市域に八幡町、都々城村、有智郷村が設けられ、昭和29年にこの3町村が合併して人口1万6千人の新しい八幡町となりました。
昭和30年代における京都・大阪都市圏の広がりは、近隣地域への人口の分散、ベッドタウン化をもたらしました。特に本市においては、2大都市圏の中間に位置するという立地条件もあって住宅適地として脚光を浴び、昭和40年代後半には都市基盤整備公団による男山団地の開発が主因となって、全国屈指の人口急増をみるに至りました。
昭和50年には人口が5万人(国勢調査)を超え、昭和52年11月1日に市制を施行、京都府内で11番目の市となる八幡市が誕生しました(平成29年に市制施行40周年を迎えました)。その後も人口増加を続け、平成5年1月末日現在76,467人となりましたが、これをピークに以降は漸減し、現在は7万人前後を推移しています。
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