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あしあと

    第五回徒然草エッセイ大賞記念講演会を開催しました

    • [公開日:]
    • ID:7352

    第五回徒然草エッセイ大賞記念講演会について

    平成29年の市制施行40周年を機に創設した「徒然草エッセイ大賞」の第五回記念事業として、記念講演会を開催いたしました。

    山極寿一さんの講演の様子

    山極 寿一さん

    講演会概要

    日時:令和3年8月21日(土曜日)午後2時〜3時30分

    講師:山極壽一さん(総合地球環境学研究所所長・人類学者、第五回徒然草エッセイ大賞選考委員長)

    会場:八幡市立生涯学習センター 3階ふれあいホール

    内容:「つながりとは何か」

    講師プロフィール

    1952年、東京生まれ。京都大学総長を経て2021年より現職。京都大学名誉教授。

    専門は人類学・霊長類学。ゴリラ研究の第一人者。霊長類のさまざまな調査研究から、人間社会の由来と未来を探る。

    著書に『家族の起源』『父という余分なもの』『ジャングルで学んだこと』『暴力はどこから来たか』『「サル化」する人間社会』『ゴリラからの警告...人間社会、ここがおかしい』など。

    2021年、南方熊楠賞を受賞。

    講演内容

    ウイルスと動物の「共生」を破壊した人間

    「コロナ禍」という事態を1年半以上経験して、私たちは世界に対する考え方を大幅に変えなければならなくなりました。20世紀まで、人間は地球を支配できていたと思い込んできましたが、新型コロナウイルスの出現で世界的パンデミックとなり、それが思い上がりに過ぎないと実感させられました。

    地球には細胞を持たないウイルスのほかに、単細胞生物のバクテリア(細菌)がいます。人間の腸内には100兆個のバクテリアがいて、人間の100倍の遺伝子をもち、我々の身体を調整してくれています。バクテリアはあらゆる動物の身体にもいて、人間が出現するずっと以前から、地球のいたるところにいます。地球は、微生物の惑星といってもおかしくないんですね。

    一方、野生動物の身体には、ウイルス由来の遺伝子がたくさん入っています。人間の遺伝子も、8パーセントはウイルス由来といわれています。ウイルスは自身で細胞を持たないため、他の生物の細胞に入り込んで増殖するわけですが、悪さをするばかりではありません、人間の遺伝子の一部になり、人類が地球全体に広がるのに貢献した存在でもあるのです。ただその実態は、まだわからないところがたくさんあります。

    ウイルスによる感染症というのは、人類が1万2000年前に「農耕牧畜」をはじめてから増えた病気です。それまでは、ほとんど存在しませんでした。人類や家畜の爆発的な増加によって、ウイルスがさまざまな動物と「共生」してきた場所を、人為的に破壊したことも大きな原因です。

    今度の新型コロナウイルスだけではなくて、私はアフリカでゴリラを調査する過程でさまざまなウイルスと出会っています。一番大きなものが「エボラ出血熱」のウイルスです。これは新型コロナウイルスと似ていて、潜伏期間が1週間、コロナは飛沫感染で、エボラは接触感染ですが、ホストは同じコウモリといわれています。

    違うのは致死率で、エボラ出血熱は80パーセントと高いため、広がり方が限定的になります。新型コロナウイルスは致死率20パーセント以下、日本では10パーセント以下です。その上、感染しても発症しない人が多いので、自覚症状のない人たちが出歩いて感染を広げました。

    新型コロナウイルスは、人口の都市への極端な集中、人々が国境を越えて移動するグローバル化の時代という現代社会の特徴に乗じて、パンデミックを引き起こしました。いまやっとワクチンができましたが、ウイルスの今後の変異を考えると、やはり「三密」=密集・密接・密閉は避けた方がいいわけです。

    しかし「三密」は、私たち人間にとって非常に重要です。そもそも人間の祖先である類人猿から現代人まで、人間は集団規模を大きくしながら進化してきて、それによって結果的に脳容量を拡大し、知性を高めてきたと思われるんですね。

    脳を発達させたのは、言葉ではなく「集団の規模」

    ゴリラの脳の容量は約500CCありますが、人間の脳はその三倍の1500CCです。多くの人がその理由を「人間は言葉を持つからだ」と考えがちです。しかし最近の研究では、言葉の登場は約7万年前といわれています。人類が進化の過程で、最も近いチンバンジーの共通祖先と枝分かれしたのが約700万年前ですから、人類誕生から99パーセントの期間を言葉ナシで生活していたわけです。脳の容量が1500CCになったことと、言葉を獲得したことにはほとんど相関関係はないんです。

    脳がここまで大きくなり始めたのは、200万年前です。それ以前はまだ脳も小さく、二足歩行が可能になってもオランウータン、チンパンジー、ゴリラ、テナガザルなどの類人猿と替わりませんでした。

    現代人なみの1500CCの脳の登場は、今から40万年前です。ところがホモ・サピエンスの登場は20万年前ですから、そのとき脳は十分大きくなっていたんです。しかも言葉を獲得して、豊かな文明を築いたかに見える現代人の脳は、20万年間まったく大きくなっていません。あるデータによると、縮んでいるという説もあります。

    言葉が人間の脳の容量の進化に関係していないとすれば、なぜ大きくなったのか。それに説得力ある仮説を提唱したのが、イギリスの人類学者ロビン・ダンバー(1947年生)です。人間以外の霊長類の脳を調べ、大脳の旧皮質に対する「新皮質比」という指標をとりました。

    「新皮質比」が高い、つまり脳が大きい種は、平均的な集団規模が大きいとわかったんです。集団が大きいと仲間と自分、仲間たちの関係を頭に入れておく必要があり、脳の成長をうながします。つまり脳が大きいから大きい集団を形成するのではなく、大きな集団という「環境」が、脳を発達させることがわかりました。脳は、社会的な複雑さによって大きくなったのです。

    逆に脳の大きさから集団規模を割り出すという研究も行われました。化石の頭骨から脳の容量を割り出すと、ゴリラと同じ500CCのころは10から20人の集団を形成していることが多いのですが、1500CCになると150人規模になります。現代でも狩猟採集民の集団は、ちょうどそのくらいです。

    言葉を使わなくても意思疎通できる集団の上限は、10から15人くらいといわれています。現代のスポーツの世界でも、サッカー11人、ラグビー15人と、それ以上の人数はなかなかないですね。「共鳴集団」といわれる、言葉のいらない身体コミュニケーションが可能な最大のサイズです。試合になれば、言葉で説明し合わなくても、集団で1つの目的に向かって生き物のように動けるチームワークを発揮できる単位です。

    では容量が1500CCの脳を獲得した時の150人の集団は、現代では何でしょう? この集団を私は「社会関係資本」と呼んでいます。端的にたとえると、「年賀状を書こうと思ったときに頭にうかぶ人の数」です。

    過去に喜怒哀楽をともにした仲間、一緒に共同作業したことのある仲間は、名前で憶えているのではなく、身体的記憶によって頭に浮かびます。「社会関係資本」とは、何かあったときに相談できる、信頼する仲間の数ともいえます。言葉を介在させなくてもいい、身体の記憶として築ける人間関係の上限といえるでしょうか。

    「白目」が大きいことが、ヒトの社会性を高めた

    これを現代の日常生活に落とし込んで整理してみると、「共鳴集団」である10から15人は、3世代が一緒に暮らす昔の大家族の数と重なります。生まれつき一緒に暮らしているから、後ろ姿を見ただけで相手の気持ちがわかるような関係が成り立っています。

    その共鳴集団が10家族くらい集まって、150人くらいの「地域集団」になります。そして地域集団は、私は「音楽的コミュニケーション」によってつながっていると考えています。典型的なのが祭りのお囃子です。食事、エチケット、マナー、方言なども、すべて集団特有の音楽的なリズムでつながっています。だから集団内の人間同士は、違和感なくつきあうことができ、そこに文化が生まれます。

    ところが外の世界に出ると、言葉を使って論理的に付き合わなくてはならない人たちと接します。これがわれわれの日常ですが、言葉を持たなかった類人猿は、どんなコミュニケーションでつながっていたのでしょう。ニホンザルは相手の顔をじっと見ると威嚇になりますが、チンパンジーやゴリラは顔と顔をくっつけて互いに見合わせ、意思疎通をします。「対面コミュニケーション」です。これは人類も同じで、類人猿にも特徴的なコミュニケ―ションなのです。

    ところが人間は、相手との距離を1メートルくらい置きます。話をしやすい距離だとという人もいますが、声を出すのだから後ろ向きでも成り立つはずです。それなのに顔を合わせるのは、じつは目に関係があるという研究があります。

    つまり眼球の「白目」が大きいかどうかなんです。類人猿と人間の目の違いは、白目の大きさです。それにより、目が心理を反映して細かく動く様子が明確になり、1メートルくらい離れて観察すれば、相手の感情が読みとれるのです。誰から教わるわけでもなく、相手の目の微細な動きを通して、その気持ちを読む能力を人間は手にしたのです。

    700万年前にチンパンジーと人間の祖先が枝分かれした後、人間の目だけに「白目」があらわれました。ホモ・サピエンスが世界に広がるずっと以前です。目を見て相手がわかるというのは「共感力」です。チンパンジーやゴリラにも共感能力があるのに、なぜ人類だけがさらに高められたのか。理由は「共食」と「共同保育」にあります。

    チンパンジーやゴリラも食物の分配はしますが、自分が多い方をとって、持ち帰ることはしません。しかし人類は自分が食物を見つけても、集団に持ち帰って分配し、仲間と一緒に分けて食べます。なぜそうするかといえば、「食物が人をつなぐこと」を知っているからです。食物は、コミュニケーションを促進する社会的な道具になりました。この「共食」によって、人類の共感能力が一気に向上しました。

    およそ700万年前、人類の祖先が熱帯雨林を出て草原へと進出した際、草原は食物が分散していて少なく、狩猟採集に行く人間は遠くまで出て食物を獲得し、群れへもって帰る必要がありました。待つ人は、何を採ってきれてくれるんだろうと期待し、見えないものを欲するようになります。人間の脳に、情報の共有や期待を持つという能力が備わっていったのです。

    赤ちゃんとの関係が、人間のコミュニケーションを育てた

    次に「共同保育」は、なぜ始まったのかを考えます。これは人間とゴリラの子供を比較するとよくわかります。ゴリラの大人はオス200キロ、メスで100キロの体重があります。生まれたときは1.6キログラムほどで、ゴリラの赤ちゃんは3年間も母乳で育ちます。1年間はずっとお母さんの腕の中にいるので、泣くこともありません。

    人間の赤ちゃんは、3キロを超えて生まれてくるので大きいですが、自分で母親にしがみつけません。そのかわり泣いたり、笑ったり、感情豊かです。にもかかわらず、1年から2年で乳離れしてしまう。ゴリラで3年、チンパンジーで5年、オランウータンで7年かけて離乳します。

    ただ類人猿は、離乳したとき永久歯が生えているので、大人と同じものを食べられます。人間の子供の場合は、6歳で永久歯を獲得するまでは華奢な乳歯です。すると子供に合った熟したフルーツとか、特殊な柔らかい食べ物をとってくる必要があります。

    こうまでして離乳を早めたのは、人類が熱帯雨林から草原に出たとき、地上にいる危険な肉食獣に襲われることが多かったことが考えられます。そのために多産であることが必要になり、次の子供を生めるまでの期間の短縮が必要になりました。離乳が遅いと、次の出産までに時間がかかります。

    また生まれてくるとき、人間の赤ちゃんは類人猿より重いのですが、これは体脂肪と関係があります。ゴリラの赤ちゃんの体脂肪率5%なのに対し、人間の赤ちゃんは15パーセントから25パーセントです。これは脂肪を蓄えて、脳に多くのエネルギーを送り続けるためです。

    ゴリラの赤ちゃんは4年間で脳が2倍になりますが、人間の赤ちゃんは生後1年で脳が2倍になります。そのため脳にエネルギーをさかんに送る間は成長速度が遅いのですが、脳が育ってしまうと急速に身体が発達します。12歳から16歳の時期です。つまり離乳期と思春期スパートの時期に急激な変化が身体に起こり、精神的にも不安定な時期を迎えます。それを集団で見守るためにも、「共同保育」が必要になったのです。

    赤ちゃんが生まれてすぐに泣くのは、自己主張のためです。すると誰かが泣き止まそうとして抱き上げます。人間の赤ちゃんは、いろんな人に抱かれるように生まれついているんですね。これにより共同保育が生まれ、人間の共感力を高めるとともに、共同の育児によって音楽的コミュニケーションを手にしたと考えられます。

    泣いている赤ちゃんに優しい言葉をかけることを「インファント・ダイレクトスピーチ」といいます。ピッチが高く、変化の幅が広く、母音が長めに発音されて、繰り返しが多いという特徴があります。子守歌が典型的な例ですね。これによって、人類は国や言語の壁を超えて、音楽的な声を出せるようになりました。

    赤ちゃんは言葉を投げかけても意味がわかりませんが、音のトーンやピッチを「絶対音感」の能力で聞いています。ちなみに言葉を話す3歳くらいになると、絶対音感が消えて相対音感になります。

    しかし人類が言葉を手にする前、その音楽的コミュニケーションは大人の世界にも波及し、お母さんと赤ちゃんの間にあるような一体感を集団にもたらすようになりました。これが、人間の集団的な「社会力」を向上させ、艱難辛苦や喜怒哀楽をともにする集団生活が言葉ナシにできるようになっていきました。

    農耕牧畜開始から、1万2000年で地球が危機に

    いままでの話をまとめます。人類は、約700万年前に2足で立ち、自由になった手で食物を持ち帰って共食をはじめ、地上性の肉食獣に襲われるので、子をたくさん産むようになります。約200万前に脳が大きくなって重たい赤ちゃんを産むようになり、成長が遅くなって「共同保育」が必要になります。ここで複数の家族が集まった「共同体」という人間特有の社会が生まれました。

    しかし「家族」と「共同体」では、じつは編成原理が違います。家族は見返りを求めずに奉仕する関係であり、家族が複数集まっている「共同体」では、何かしてあげるとお返しが来る、してもらったのでお返しがしたいという「互酬性」でつながっています。それが人間に、共感力や先の展開への予測力を身につけさせました。

    ゴリラには家族的な集団しかないし、チンパンジーは共同体的集団しかない。人類だけが性質の違う2つを共存させる社会をつくったのです。その「社会力」を武器にアフリカの熱帯雨林を出て、ユーラシア大陸に旅立ちました。やがて「言葉」を発明し、アメリカ大陸やオーストラリア大陸など全地球上に広がっていきます。

    そして約1万2000年前に農耕牧畜をはじめ、定住しました。食物を狩猟採集ではなく「生産」するようになりましたが、そのころの人口は全世界で500万人ほどでした。ところが生息地を地球規模で拡大して産業革命を成し遂げ、情報革命によって超スマート社会を実現した現在、人口は約78億です。

    問題は人類の爆発的な増加だけではありません。家畜は、全世界に各種10億以上いて、ニワトリにいたっては500億羽いるんです。その家畜を介して、細菌やウイルスが猛威をふるい始めました。

    いま、地球上の哺乳類は9割以上が、人間と家畜です。その人間と家畜を食わせるために森林を伐採し、地球上の陸地の4割以上が畑と牧草地になっています。野生動物が暮らす森林は、3割ほどになってしまいました。

    人類が生存できる安全な活動領域とその限界点を示す9つの指標を、「プラネタリー・バウンダリー」といいます。地球の限界、惑星の限界といった意味です。このうち、「生物多様性」と「窒素とリンの循環」については、すでに限界値を超え、他の指標についても限界に達するのは時間の問題といわれています。

    なぜそうなったのか、私たちはいよいよ、きちんと反省すべき段階にきています。

    AIは、人間から何を奪っていくのか

    さて、音楽的コミュニケ―ションの上に、われわれは「言葉」を発明しました。これはものすごいコミュケ―ションツールでした。現物を持ち歩かなくても、名前で代替して物事を説明できる、それぞれ異なったものを名前によって分類し、カテゴリー化できる、物語をつくり、その因果関係から過去・現在・未来をつなぎ、現実にはないものすら物語として人々と共有できる──そして今、情報通信革命が加速しています。

    言葉が約7万年前、文字が約5000年前、電話が約160年前、インターネットが約50年前の誕生です。加速度を増す情報ツールの発達の結果、脳にとっては困ったことが起こっています。人間の脳は、意識(「感情の動き」)と知能(「知識の蓄積」)が分かちがたく結びついて物事を判断します。しかし今、「知識」の部分だけがデータ化されてAI(人工知能)に分析され、「感情」の部分が社会的に軽視されつつあります。

    また現代社会にあって、私たちは現実よりもフィクションに生き始めています。スマホで検索すれば、地図を出して矢印で教えてくれ、行き先まで正確に案内してくれます。雨が降る、虫が飛んでくる、犬が横切ると、予想もしないことが次々に発生するのがリアルの世界ですが、スマホに依拠した場合、そういうものが目に入りません。

    クルマを運転する多くのみなさんが、もう道路地図を使いませんね。カーナビは的確に目的地まで案内してくれますが、周りのリアルな景色と自分のつながりは失われます。地図のころは、まだ地図と現実の風景を照らし合わせて記憶していたはずが、そこを断ち切られてしまいます。我々は今や、半分以上はフィクションの住人なのです。

    コロナ禍以降、「安全、安心を確保して」という言葉がよく使われるようになりました。安全はたしかに科学技術の進歩によってもたらされますが、「安心」はどうでしょうか? 人間の安心は、先程述べました「社会関係資本」によってもたらされるものです。いかに安全と思われる環境にいても、かつての和歌山の毒入りカレー事件ではありませんが、コミュニティのなかで裏切りが出たらおしまいです。「そんなことないだろう」と思って暮らしていられるのは、信頼できる「社会関係資本」に囲まれて生きているからです。

    今や、それが揺らいでいます。個人がバラバラになって、人間を頼るのではなく、制度やお金と付き合わされています。「自己責任」「自己実現」という言葉がより重みを増し、個人単位に分断され、「社会関係資本」による安全は担保されなくなっています。そのうえで、フラットで均質なデジタル化社会に暮らそうとしているわけです。デジタルの世界では、情報化と均質化が加速していきます。それ自体は悪いことではないのですが、全面的に人間に当てはめると大変なことになります。

    AIで採用する人材の期待値を判定することが、行われ始めています。アメリカで実際にあったことですが、ある人の情報をAIに分析させたところ、個人の過去の情報だけでなく、似たような人間の情報も合わせて判断するため、たまたま犯罪多発地域の出身だっただけで、「将来犯罪をおかす危険性が高い人物」と判定されてしまったのです。

    人間は全く過去から切り離されたことを考え、やりだす能力を持っています。ゼロからイチを生み出す力があるのが生物です。AIにそれはわかりません。身体も感情に持たないからです。分析の目的を正しく与えれば、AIは優れた判断を下しますが、目的の設定が正しくないと誤った方向を示すことがあると肝に銘じる必要があります。

    「生物工学」よりも、異なる文化との交流が進化を推進する

    しかも人間は、生物工学の進歩による遺伝子編集などで、いま内側から改造されようとしています。社会的格差、経済的格差であれば、なんらかの政治や経済の手段によって改善することが可能でした。しかし科学技術によって「生物学的格差」をつくってしまったら、取り返しがつきません。劣った人間と優秀な人間ができてしまい、劣った人間を低級な人間として、かつての奴隷のように扱う日が来ないとは限らないのです。

    科学技術は、人間の能力を拡大する方向で進んでいきます。全体の力をどんどん増して、今や地球の許容力を超えようとしています。2015年のパリ協定で、それぞれの国が持続的な目標をもってやることがSDGs (サスティナブル・ディベロップメント・ゴールズ)などの約束事が決まりました。17の目標と169の小さな目標が掲げられましたが、このなかで欠けている重要なものがあります。「文化」です。SDGs (サスティナブル・ディベロップメント・ゴールズ)のなかに入れられないのは、「文化」は数値目標化できないからです。

    「文化」は体験と共感によって身体に埋め込まれたものであり、食事、服、住宅などの文化に基づく生産物はありますが、本来は抽象的で、頭に描くことはできても数値化はできません。地域の歴史や自然に根付いたものです。しかし人間が作ったものだから、グローバルな共有は可能だと考えます。

    私が今、所長をしている2001年設立の「総合地球環境学研究所」は、「地球環境問題の根幹は人間の文化の問題である」ということをモットーにしてやっています。環境問題というと自然科学分野のように思われるんですが、じつは文化の問題なのです。

    同じ2001年、パリのユネスコ総会で「文化的多様性に関する世界宣言」が採択されました。第1条は、「生物的多様性が自然にとって必要であるのと同様に、文化的多様性は、交流、革新、創造の源として、人類に必要なものである」に始まります。

    とくに第7条のこの一文が、ふるっています。「創造は、文化的伝統の上に成し遂げられるものであるが、同時に他の複数の文化との接触により、開花するものである」。つまり文化は、内向きであってはならない。他の文化と接触することで新たなイノベーションを産むのが、人類がこれからも進化していく道なのです。

    「所有」よりも「行為」に価値を見出す時代がくる

    最初の「三密」にもどります。人間は、文化の多様性を築いてきました。それが可能だったのは、「移動する自由」「集まる自由」「対話をする自由」の3つを我々が持っていたからです。これは他の類人猿にはありません。

    類人猿は群れを離れては生きられません。一度離れたら、元の群れに戻れなくなります。また人類には「言葉」があり、その前段階としての「音楽的コミュニケーション」という対話の手段を持ちました。これにより我々は、日々多くの「出会い」と「気づき」を繰り返してきたのですが、これが社会生活の重要な要素なのだと思います。

    ところが新型コロナウイルスによって、自由な移動、対面での会話、食事の団欒、共同保育、対面授業などが大きく制約をうけました。改めて「豊かさとは何か」を考える重要な機会になったと思います。

    世界に目を向ければ、「プラネタリー・バウンダリー」のような地球の限界が警告される一方で、SNSなどによって開かれた世界も展開しています。このコミュニケーション革命は、文化を無国籍化し、風土に根ざしたコミュニティのあり方を根底から覆してしまう可能性をもっています。個人が生活をそれぞれにデザインし、周辺の地域社会との共鳴を排除することも可能です。

    現在、人々の移動は止まっていますが、コロナ禍が収束すれば、逆にどんどん移動するようになるでしょう。SNSでは、身体的な接触は得られません。しかし頻繁に人と人がリアルに出会い、気づきを得ていかなければ人間は前に進めないんです。

    昨年亡くなった劇作家・山崎正和さんの著書『社交する人間──ホモ・ソシアビリス』(2003年)の第一章に、「社交」についてこうあります。「行動の全体をまるで音楽のように一つの緊張感で貫き、それぞれの部分をその質的なつなぐ脈動として感じる」。私たちが共有するのは言葉ではなく、社交を通じてのリズムなのです。そのリズムこそが身体を活性化させ、生きる意欲を湧き立たせてくれると私は思っています。

    新型コロナが収束した時に、私は「遊動の時代」を迎えると思っています。人も物も国境を超えて動く時代です。コロナ禍で、家庭と職場を往復しなくても仕事ができることがわかりました。それは、複数拠点を持てる自由度につながります。「定住」という農耕牧畜が始まって以来の生活観を変え、それ以前に700万年前からあった狩猟採集の世界観に戻る可能性があると考えます。

    今の若い世代は、一生今の会社にいようと思っていません。新入社員の約3割が3年以内に転職し、非正規雇用者は約4割にのぼるという時代には、単業から副業へ、多業へと向かいます。教育を受けて会社に就職し、定年後は趣味に生きるという単線型から、社会からいったん大学へ戻って研究しなおし、ほかの職業に転職するということも起こりうるわけです。趣味だって、並行して深めようとする人が出てきます。

    それは、「所有」よりも「行為」に価値を見出す時代の到来です。みなさんがSNSにアップするのは何ですか?「こんな財産を持っている」というのではなく、「こんな経験をしました」「こんなことをしています」という行為ですよね。所有物より、行為そのものによって人間の価値が決まる時代が来ているのです。

    コロナ後の社会には、感染予防を意識した生活も大切ですが、巣ごもりをして閉じこもっていると、「移動する自由」「集まる自由」「対話をする自由」の3つを失ってしまいます。ネットを使った「言葉」のやりとりだけではない、食事、音楽、スポーツなどを通じた身体を使ったさまざまなコミュニケーションが必要なのです。

    五感を通した交流と情報機器をつかった交流をうまく使い分けながら、風土に依拠した生活のデザインをしていかねばなりません。そのことによって私たちは、自然と文化が調和した豊かな未来を築くことができると思います。それが、人間が適切なつながりを持った社会、ウイルスやバクテリアもあわせて、命と命が適切なつながりを持った世界を創り出すことになるのではないでしょうか。

    私の勝手な考えを述べましたが、みなさんはどう考えますか。ご清聴ありがとうございました。

    なお、徒然草エッセイ大賞はただ今作品を募集しています。
    (注)応募締切 10月14日(木曜日)必着

    詳しくは専用ホームページをご覧ください。

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    八幡市役所政策企画部生涯学習課

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