八幡市の歴史資料のご紹介(令和7年5月)
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河原崎家歴史資料のご紹介 7

石清水神人の日記に見る八幡の水害と朱印状
前回までの紹介では、宝暦9年(1759)2月に発生した男山坊舎の火災に関する記事を例に、河原崎家に伝来した他姓座神人の日記の特色について紹介しました。今回は、文化12年(1815)の神人の業務日誌に記録された水害と、水害時の朱印状管理について紹介します。
『神役勤方日記』文化12年表紙。(表紙には「堤切」とある)
- 資料群名:河原崎家歴史資料
- 作成者:他姓座
- 年代:文化12年(1815)
- 員数:1冊
- 所蔵者:八幡市教育委員会
八幡は、地理的な要因から水害の多い地域であり、近代にいたるまで幾度となく洪水に悩まされてきました。『八幡市誌』によれば、江戸時代には24回の洪水が発生しています。しかし、これは文書に記録として残っている回数であり、実際にはさらに多かったと考えられます。
これらの洪水は、他姓座神人たちの業務日誌にも記録されています。文化12年(1815)の記録を例にみてみましょう。(翻刻文がダウンロードできます。)
『神役勤方日記』文化12年7月7日条から。
(PDF形式、172.86KB)
『神役勤方日記』文化12年6月・7月 翻刻(抜粋)
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被害報告
日記の記述によれば、6月、美豆村(現・京都市伏見区)と大住村(現・京田辺市)の2か所の堤防が決壊します。
同月29日条には、当職(当職役人)から届いた2通の触書が記録されています。それぞれの内容は、
- 洪水が発生したため、当職への出礼は無用である
- 朱印状所有者を仲間年預の者が確認し、朱印状の安否について水が引き次第当職へ報告せよ
というものです。他にも怪我人などについて報告するよう、複数の触書が回っていたようですが、日記にはそれらは省略した旨が記されています。
文化12年6月末、堤防決壊を要因とする洪水に伴い、他姓座神人のもとには、当職から触書をもってさまざまな指示が届いていたようです。

朱印状の安否確認
それから約一週間後、7月8日条の記述からは、他姓座の河原崎幸馬・河原崎鐐太郎の2名が、朱印状の安否確認のため木津川対岸の嶋田村(現・久御山町)に住む嶋田弥二郎のもとへ赴いていることが分かります。神人は八幡庄外にも散在していたため、八幡庄内に住む神人は木津川を渡り、庄外まで朱印状を確認しに行く必要がありました。
嶋田村にて朱印状が無事であることが確認されると、その旨が八幡庄の仲間に報告されます。同12日には、河原崎鐐太郎が朱印状の安否確認のため、小河伊予のもとへ赴いています。8日と同様に、朱印状が無事であることを実際に見て確認した旨が報告されていることが分かります。

朱印状の安否報告
同13日には、他姓座で管理している全ての朱印状が無事であった旨が組惣代・小中村小六から当職に報告されています。日記には、報告書の写しが記録されています。内容は、「今回の洪水について、他姓座が頂戴した朱印状の安否を確認したところ、仲間全員の朱印状が無事であっとことを報告いたします」、というものでした。この日を最後に洪水に関する記述は見られなくなり、その後は神供や放生会など他姓座の恒例業務の記録が続きます。
ここまで、文化12年6月の水害時の記録を見てきましたが、その内実は、水害の実態に関する記録というより、水害に伴う朱印状の安否確認に関する手続き記録であると言えます。被害実態や被災後の対応などはほとんど記録されていませんでした。これは他の年の洪水時も同様であり、この日記があくまで他姓座神人たちの業務日誌であることを物語っています。同時に、朱印状の守護・管理が神人たちにとって大変重要な業務であったことを意味しています。
では、八幡の神人たちが重要視した朱印状とは、いったいどのような文書なのでしょうか。

石清水神人と朱印状
朱印状とは、主に戦国時代から江戸時代にかけて、将軍や大名が発給した、朱印が押された公文書の総称を指します。特に江戸時代では、将軍が大名や公家・寺社などに対し領地を認定したり、特別な権利を与えるために発給した、いわば将軍や幕府お墨付の証明書ともいうべき、特別な権威を帯びた文書でした。
通常、朱印状(領知朱印状)は対象となる土地の領主(大名・公家・寺社など)に対して1通発給されるものです。しかし、石清水八幡宮領の場合、領主である石清水八幡宮だけでなく、そのもとで活動する山上の僧坊から山下の諸寺社・諸神人に至るまで、それぞれに対して朱印状が発給されました。その数は、初代将軍徳川家康の際には361通であったといわれています。これは全国的に見ても非常に珍しい事例であり、徳川家康、延いては徳川幕府が八幡の地をいかに重要視していたかがわかります。
〔徳川家康朱印状〕
- 資料群名:河原崎家歴史資料
- 作成者:徳川家康
- 宛所:淀他生 河原崎喜太郎・同源三郎・同彦右衛門(他姓座三人組)
- 年代:慶長5年(1600)5月25日
- 員数:1通
- 所蔵者:八幡市教育委員会

朱印状の内容
他姓座神人に発給された朱印状には、「八幡庄のうち淀の他姓神人である河原崎喜太郎は8石5斗3升、同じく源三郎は8石6斗6升、同じく彦右衛門は6石5斗8升、合計23石7斗5升について、全て石清水八幡宮の勤めのために使いなさい」、と書かれています。記される石高などは、宛先の神人・組によりすべて異なりますが、内容としては、徳川将軍により認められた領地(朱印地)からの収入をもって、石清水八幡宮の神役を勤めなさいというものです。
これをもって神人たちは、徳川将軍から石清水八幡宮領における土地の所有、延いては神人であることを公認されました。朱印状は将軍の代替わり毎に更新され、代々継承されていきます。
河原崎家が所属していた他姓座は、家康の段階では、他姓座三人組に宛てた1通と、他姓座四人組宛ての1通、あわせて2通の家康朱印状が発給されました。同家には、家康朱印状のうち三人組宛のもの(原本)と、秀忠以降の歴代将軍の他姓座七人組宛朱印状(原本)が伝来しています。
〔徳川秀忠朱印状〕

八幡の水害と朱印状
将軍の代替わり毎に発給される朱印状は、神人にとって将軍・幕府お墨付きの土地証明書、神人としての身分証明書でした。水害時の記録からは、神人たちが朱印状の安否確認をいかに重視していたかがよく分かります。
非常時において徹底した朱印状の安否確認・連絡体制がとられたのは、八幡が水害多発地域であり、神人の中には川を挟み八幡庄外に居住する者がいたことも大きな要因でした。石清水八幡宮領では、神人たちが組織として朱印状を共有し、共同で管理・守護する体制が確立していたといえるでしょう。
このように、朱印状は数多の災害を経ながらも、江戸時代の神人たち、延いては八幡に生きる人々の努力によって、現代まで守り伝えられてきたのです。(文化財課:金子・西川)

用語集
- 当職(とうしき・とうしょく)
石清水八幡宮を統轄する当代の社務(検校)。当時の社務は善法寺立清。江戸時代の社務は、祀官家(田中・善法寺・新善法寺・壇の4家)が将軍の代替わり毎に順番に就任することになっていた(社務廻職)。
- 触書(ふれがき)
幕府や領主が領民に広く通達した文書。ここでは、石清水八幡宮を統轄する当職善法寺立清(の役人である藤木)から各神人の組に宛てて出されたもの。
- 年預(ねんよ)
神人の組内において毎年交代(年番)で、組内の朱印状を預かり、管理・守護する者。他姓座神人の組内においては、他姓座七人組宛の朱印状を管理・守護した。この年の年預は神原相模であったが、前日に死去しているため、代わりに河原崎幸馬・河原崎鐐太郎の2名が朱印状の確認に赴いていると思われる。
- 河原崎家(かわらざきけ)
河原崎家は、もともと安居脇頭神人の宇治大路(うじおおじ)家であり、初代の宇治大路昌親(安正)に宛てられた朱印状を所持していた。5代目の宇治大路昌植(まさのり)の時に他姓座神人の河原崎源三郎の名跡を相続したことで河原崎姓に改姓。これにより、河原崎家は安居脇頭神人と他姓座神人とを兼帯することとなる。宇治大路から河原崎への改姓については、八幡市の歴史資料のご紹介(令和6年8月分)を参照。
- 他姓座三人組(たせいざ・たしょうざさんにんぐみ)
河原崎喜太郎・源三郎・彦右衛門の3名および、この3名の名跡を相続した神人。文化12年の日記内では、小川伊予が三人組宛朱印状を預かっていた。
- 他姓座四人組(たせいざ・たしょうざよにんぐみ)
小中村小六・九介・彦七郎・嶋田弥二郎の4名および、この4名の名跡を相続した神人。文化12年の日記内では、嶋田弥二郎が四人組宛朱印状を預かっていたと思われる。
- 他姓座七人組(たせいざ・たしょうざしちにんぐみ)
2代将軍徳川秀忠の朱印状から、三人組と四人組それぞれに宛てられた朱印状が1通にまとめられ、他姓座七人組宛として発給されるようになる。他姓座の年預が預かっていたのは、秀忠以降の七人組宛朱印状であると思われる。

参考文献
- 西中道「石清水八幡宮の祭祀と僧俗組織―放生会と安居神事をめぐって―」(椙山林繼・宇野日出生編<神社史料研究叢書第5輯>『神社継承の制度史』、思文閣出版、2009年)。
- 東昇「近世石清水八幡宮の神人文書と文書認識」(国文学研究資料館編『アーカイブズの構造認識と編成記述』、思文閣出版、2014年)。
- 東昇「近世石清水神人と文書―京都府八幡市地域の調査から―」(『日本史研究』678、2019年)。
お問い合わせ
八幡市役所こども未来部文化財課
電話: 075-972-2580 ファックス: 075-972-2588
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