八幡市の歴史資料のご紹介(令和7年9月)
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河原崎家歴史資料のご紹介9

八幡初の図書館?―御文庫の造営と地鎮祭―
かつて、石清水八幡宮の三ノ鳥居付近に御文庫と鳩嶺書院という施設がありました。文庫とは、文字通り書籍や文書などを保管する場所で、書院は書物を蒐集し講義する場所のことをさします。江戸時代の石清水八幡宮には、図書館と学問所の機能を併せ持つような教育施設があったのです。平成17年に老朽化により取り壊されるまで、御文庫には石清水八幡宮に伝わる多くの記録・古文書・典籍が保管されていました。
今回は河原崎家歴史資料の中から、石清水八幡宮に建てられた御文庫とその地鎮祭のあらましについて記した資料をご紹介します。
「男山八幡宮全山図」(明治11年、八幡市教育委員会所蔵)
三ノ鳥居から南総門周辺、馬場と呼ばれる地区。鳥居の東側に「御文庫」・「書院」が描かれている。
鳩嶺書院(『八幡市誌』第2巻より)

御文庫造営の目的
文化11年(1814)3月2日、森元回蔵を筆頭とする8人の社士たちから石清水八幡宮の社務当職に宛て、御文庫と講席集会所(鳩嶺書院)造営の願書が提出されました。
願書に記される御文庫造営の目的は、「学問に励むことを望んでいても、貧しい者は書籍を自費で用意することが難しい。そこで文庫を建設して貧しい者にも書籍を貸し出せるようにしたい」、というものでした。また、そのための費用は社士たちが同志を集めて募るとも述べられており、彼らが主導して八幡の人々のための教育施設建設を目指したことがわかります。この申請は許可され、翌年には三ノ鳥居付近、御鳳輦舎南の空き地に用地が選定されました。
御文庫・講席集会所造営の願書の写し(「奉願口上之覚」河原崎家歴史資料)

御文庫造営のための資金調達
しかし、実際に建設に取り掛かるまでには数年の月日を要しました。願書提出から5年後、文政2年(1819)正月21日の河原崎幸馬(8代目、河原崎安之)の『日記』をみると、御文庫造営を主導する社士8人のうちの1人、花井七兵衛尉が志水町内からも出資者を募るため、幸馬宅に願書の書付を持参しています。河原崎家も御文庫造営の同志として出資を求められたことが分かります。
その後、幸馬は花井からの依頼を町内社士らに連絡するなど調整を図り、1か月後の2月21日、花井のもとへ御文庫造営費用を持参しました。その際幸馬が受け取った請取書(領収証)も残されています。
河原崎幸馬が受け取った御文庫造営費用の領収証(「覚」河原崎家歴史資料)
こうして、河原崎家を含む社士達から広く費用を募ることで、どうにか御文庫造営にこぎつけることができました。同年4月9日には花井七兵衛尉から手紙が回覧され、12日に地鎮祭、18日に上棟を行うことが通知されており、建設工事に入ることが分かります。

『石清水御文庫造営地鎮祭略式』
回覧にある通り、御文庫の地鎮祭は文政2年4月12日に行われ、河原崎幸馬もこれに参加しました。この地鎮祭に関連する『石清水御文庫造営地鎮祭略式』(以下『地鎮祭略式』)という資料が残されています。
『石清水御文庫造営地鎮祭略式』表紙
- 資料群名:河原崎家歴史資料
- 作成者:不明
- 年代:文政2年(1819)
- 員数:1冊
- 所蔵者:八幡市教育委員会
そもそも地鎮祭とは、建物の基礎工事に先立って工事の安全や建物の健在を祈願して行う儀式で、古くは密教や陰陽道などさまざまな方法で行われており、その手順や必要物品などは多岐にわたります。しかし、いずれの方法でも神仏に祈願して地面の中に鎮物を埋めるという作法は共通しています。現在では神道式の地鎮祭が主流となっており、その地の産土神と大地主神を降ろして鎮物を埋める儀式を行っています。
『地鎮祭略式』は、文政2年に行われた御文庫の地鎮祭の手順や必要物品、参加者などを記した儀式次第であり、当時の地鎮祭の様子を伺うことができます。これによれば、儀式を取り仕切ったのは八幡宮の神官である検知、そして文庫造営に尽力した四座の神人たち(他姓・六位・大禰宜・小禰宜)でした。以下で詳細な内容を確認していきましょう。
『地鎮祭略式』内容

地鎮祭の流れ
まず、当日までに忌竹を立てるなどして会場の四隅を結界します。当日は、以下の通り儀式が執り行われます。
- 検知と四座神人が指定の場所に着座する。
- 検知が会場四方と中央の計5か所に穴を掘って土を土器に盛る。
- 検知が神霊を招き、警蹕する。参加者は平伏する。
- 5か所の穴に大刀子・小刀子・幣・榊、そして先ほど土を込めた土器を入れる。
- 検知が呪文を唱えながら「斎鋤」で土を被せる。
- 検知と四座神人が神供・神酒を献上する。
- 5か所順番に奉幣する。
- 祝詞を奏上する。
- 神供を片付け、拍手し再拝・揖(おじぎ)をする。
地鎮祭の中心は、地面を掘って鎮物を埋納し斎鋤で土を被せる、という手続きになります。これを行うことで地面が堅固となり、これから建つ文庫を守ってくれると考えられたのです。さらに『地鎮祭略式』には儀式次第に加えて「附録」という儀式に対する補注があり、鎮物の詳しい形態や5か所の祭神が定められています。それによれば埋める幣帛は五色のものを用いること、そして祭神は東に気神、南に大田神、西に鬼神、北に興玉神、中央に国底立神を配し、これらの神はすべて猿田彦大神の別名(名前が別であるが同体の神)であるとしています。
『地鎮祭略式』「附録」
こうした地鎮祭の方法はさまざまある神道式の中でも大変特徴的なもので、とくに祭神に関しては梅宮大社の社家に伝わった橘家神道の地鎮祭に類似します。橘家からの影響が直接的なものか間接的なものかはわかりませんが、当時の八幡宮の社士や神官たちが、御文庫造営にあたってさまざまな先例を調べ、その中から相応しい方法を選定したことが想像されます。

護国寺の地鎮祭との比較
なお、同時期の文化13年(1816)に、石清水八幡宮境内の護国寺本堂が再建されています。平成22年に行われた護国寺跡の発掘調査では、地鎮の祭祀に用いられたと思われる輪宝と独鈷杵が発見されています。これらは本堂内の須弥壇を囲むように八方に配置されていたことから、天台宗の修法である安鎮家国法に基づく地鎮の祭祀が行われた可能性が指摘されています。同じ八幡宮境内であっても、建物に応じて神道式・密教式と地鎮祭を使い分けていたようです。

護国寺跡から出土した輪宝・独鈷杵

八幡の学問・教育の拠点
こうして建てられた御文庫は、講席集会所(鳩嶺書院)とともに八幡の人々の学問と教育の場として活用されることとなります。河原崎幸馬の日記には、文政2年11月17日に行われた講釈初めの題材が書き留められており、田中由清が『日本書紀』神代巻と『中臣祓』、森元回蔵が『論語』を講釈したことが分かります。神道にかかわる古典や儒教の聖典など、当時八幡の社士や神人に必要とされていた教養をうかがい知ることができます。
このように八幡の社士・神人たちの強い願い、地域や同志への積極的な働きかけにより御文庫は完成しました。地域の人々の協力により、八幡に学問の拠点が誕生したことは、江戸時代における八幡地域の教育の普及にとって大変重要な画期であったと言えます。
(文化財課:金子秋斗・花川真子)

用語集
- 鎮物(しずめもの)
地鎮祭などで神を祀り土地を清めるために地中に埋納するもの。
- 警蹕(けいひつ)
特定の掛け声を上げて、神の出入を参加者に知らせること。
- 平伏(へいふく)
神に対して姿勢を正して礼をすること。
- 刀子(とうす)
小刀のこと。土地を祓い清めるために大小の小刀が埋められた。
- 斎鋤(いむすき)
神殿などの造営の際に用いる清めた鋤。
- 猿田彦大神(さるたひこおおかみ)
天孫降臨の際、天降った神々を先導した国神(くにつかみ)。地鎮祭で祀られた大田神(太田命・おおたのみこと)は猿田彦大神の末裔ともされる。
- 橘家神道(きっけしんとう)
京都梅宮大社の祀官である橘家に伝わったとされる神道。江戸時代中期に玉木正英(葦斎)によって体系化され、広く世に知られるようになった。
- 輪宝(りんぽう)
密教で用いる車輪を模した道具。
- 独鈷杵(とっこしょ)
密教で用いる武器を模した道具。股の分かれてないものを独鈷杵、三つ股ものを三鈷杵、五つ股のものを五鈷杵と言った。

参考文献
- 神社本庁「地鎮祭」(『諸祭式要綱』神社新報社、1958年)
- 下中弥三郎編『神道大辞典1巻・2巻・3巻』(平凡社、1937年・1939年・1940年)
- 平岡好文「地鎮祭」(『典故考証現行実例 雑祭式典範』京文社、1938年)
- 松岡丘編『神道資料叢刊 18 橘家神道未公刊資料集 1』(神道研究所、2022年)
- 村山修一「地鎮と宅鎮」(『変貌する神と仏たち』人文書院、1990年)
- 安江和宣「地鎮祭と地曳」(『神道祭祀論考』神道史学会、1979年、初出1973年)
- 『八幡市埋蔵文化財発掘調査報告書 第56集 石清水八幡宮境内調査報告書』(八幡市教育委員会、2011年)
- 『八幡市誌』第2巻(1980年)
お問い合わせ
八幡市役所こども未来部文化財課
電話: 075-972-2580 ファックス: 075-972-2588
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