八幡市の歴史資料のご紹介(令和7年6月)
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河原崎家歴史資料のご紹介 8

東照宮御神忌に見る石清水八幡宮神人の日記の活用

受け継がれた日記
これまで、河原崎家に伝来した他姓座神人の日記をもとに、他姓座神人の活動を紹介してきました。これらの日記は、神人たちが後の業務や非常事態への対処の先例とするために記録され、受け継がれていきました。今回は、実際にこれらの日記がどのように利用されたのかがわかる事例として、江戸幕府初代将軍、徳川家康の年忌の行事に関わる記事について紹介します。

東照宮御神忌
江戸幕府初代将軍であった徳川家康は、元和2年(1616)4月17日に亡くなります。家康は死去後の元和3年(1617)に「東照大権現」の神号が与えられ、さらに後に日光東照宮へ遷座されます。以降は「東照宮様」・「権現様」などとして、各地で祀られるようになります。江戸時代中には、家康の年忌儀礼が各地の寺社で行われることがあり、石清水八幡宮でも、おおよそ50年ごとに「東照宮御神忌」(「権現様御神忌」とも)を行っていました。ここではまず、徳川家康の二百回忌にあたる文化12年(1815)年の東照宮二百年御神忌について、他姓座神人の業務日記である『神役勤方日記』の記述を見てみたいと思います。


『神役勤方日記』文化12年(表紙・4月8日条)
(注)表紙に「東照宮様弐百年御神忌」とみえる
・資料群名:河原崎家歴史資料
・作成者:他姓座
・年代:文化12年(1815)
・員数:1冊
・所蔵者:八幡市教育委員会
添付ファイル
『神役勤方日記』・『他姓座日記』翻刻(抜粋)(PDF形式、335.21KB)
ご紹介する『神役勤方日記』『他姓座日記』の記事の翻刻文がダウンロードできます。
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前回はどうだっけ?―文化12年東照宮二百年御神忌
文化12年(1815)4月、家康の二百回忌にあたるこの年に、東照宮二百年御神忌が石清水八幡宮で催されることになりました。『神役勤方日記』では、同年4月8日に四座中(大祢宜座・小祢宜座・他姓座・六位座)に宛てて、当職のもとへ参集するように触れが回され、翌9日に他姓座から河原崎幸馬と神原信濃の二人が参上したことが記されています。そこで、兼官藤木上総介から、東照宮様二百年御神忌を4月15日に執行することが伝えられ、次のように出勤に際しての説明が行われます(翻刻傍線部1)。
- 百五十年御神忌の際には、「日記」に四座から1人ずつ出勤していると記述があるので、今回も各組から1人ずつ出勤するように
- 百五十年御神忌の通り、五位袍を着用するように
藤木は自身の参照した日記の先例、すなわち50年前に行われた百五十年御神忌の記事をもとに、以上のように四座の神人たちに出勤を命じます。しかし、このような説明に対して河原崎幸馬は次のように異議を唱えます(翻刻傍線部2)。
- 百五十年御神忌の時には、神原庸助と河原崎主水の2人が出勤しております。袍も2人前渡されていることが、私の日記に記されていますので、何卒今回も2人出勤させていただきたいです。
このように、河原崎幸馬は「私の日記」の記述を根拠に、2人出勤することを主張していきます。しかし、河原崎幸馬の働きかけは報われず、結局各組から1人ずつ出勤することになりました。
ここまで見てきたように、他姓座の神人たちは、東照宮二百年御神忌に際して、参勤者の人数を2人にしてもらうため、自分たちが書き留めていた日記の記述を根拠に主張しました。対して、兼官藤木も自身の参照した日記の記述をもとに、1人ずつと主張しています。このように書き留められた日記の記事は、後の時代において参照され、次の行事の際に先例として利用されていたのです。
では次に、百五十年御神忌の際の『他姓座日記』の記事を見てみましょう。

出勤者は1人か、2人か?―明和2年東照宮百五十年御神忌


『他姓座日記』(表紙・4月17日条)
・資料群名:河原崎家歴史資料
・作成者:(他姓座)
・年代:宝暦13年(1763)から明和4年(1767)
・員数:1冊
・所蔵者:八幡市教育委員会
文化12年(1815)の50年前、明和2年(1765)4月7日、同じように東照宮御神忌の執行を前にして当職のもとへ参集するように達せられ、河原崎求馬が参上し、次のように申し渡されます(翻刻傍線部3)。
- 次の17日に、権現様百五十年御神忌を、宿院礼堂において執り行うので、四座中の一座から2人ずつ出勤するように
このように、50年前の『他姓座日記』を見てみると、百五十年御神忌に際して、確かに2人ずつ出勤するように命じられています。しかし、日記を読み進め御神忌当日の17日の記事を見てみると、実際の参勤者は次のように書かれています(翻刻傍線部4)。
- 四座 他姓座神原庸助・河原崎主水、六位森元内匠、大祢宜能村大蔵、小祢宜奥村主膳
見ての通り、四座中のうち他姓座以外の六位座・大祢宜座・小祢宜座からは、実際には1人ずつしか出勤していなかったことがわかります。実は、百五十年御神忌に先立つ4月15日に大雨が降り、翌16日には洪水や堤切が発生していました。この洪水により17日当日に御神忌に出勤できない神人たちもいたようで、『他姓座日記』の当日の記事(翻刻傍線部5)には、「浸水した所の者たちは道がなく参勤しなかった」と記されています。
以上のように、明和2年の東照宮百五十年御神忌の記事を確認してみると、文化12年の二百年御神忌の際に、河原崎幸馬は4月7日に当職より達せられた内容をもって2名ずつと主張していたことがわかります。その一方で兼官藤木は4月17日に実際に参勤した人数をもって1人ずつと主張していたと考えられます。

東照宮御神忌と日記の活用
ここまで見てきた通り、他姓座の神人は、後の時代の参照資料とするため、日記を書いて受け継いできました。特に50年に一度行われる東照宮御神忌のような、間が長く空く行事については、その業務遂行のため日記の確認が欠かせませんでした。また、今回見てきたように、日記の記事はトラブルや意見の食い違いが起こった際の根拠や証拠としての役割も果たしました。昔の人々にとって日記を記すことは、日々の業務遂行から非常事態への対応まで、業務を円滑に進めていく上で、欠かせない重要な営みでした。このような日記を記すという行為は、他姓座の神人だけでなく、地域や身分を問わず行われていました。
そして、現代に受け継がれた日記は、今度は我々が当時の様相を知るための重要な資料として活用しています。河原崎家歴史資料には、数多くの日記が残されていますが、このように書き継がれた日記を丁寧に読み解いていくことで、他にも八幡市の歴史について新たな一面が発見されるかもしれません。(文化財課:西川雄也)

用語集
- 年忌(ねんき)
七回忌、三十三回忌、五十回忌など、死者の命日にあわせて行われる法要。 - 四座(しざ)
石清水八幡宮の神事の際に神官の補佐をつとめる神人。大祢宜座・小祢宜座・他姓座・六位祢宜座の4つの座から成るため、合わせて四座と呼ばれた。 - 兼官(けんかん)
当職となった社務家に属する所司が就任し、石清水八幡宮において放生会・遷宮などの儀式や支配にかかる神領全体の政務を司っていた役職。 - 五位袍(ごいほう)
袍は公家や僧侶の装束の上着。位階によって色が決められている袍を位袍と言い、五位袍は五位相当の色の袍を指す。 - 宿院礼堂(しゅくいんらいどう)
宿院は山下の頓宮のこと。礼堂は頓宮内にあった礼拝のための堂。

参考文献
- 曽根原理「徳川家康の年忌儀礼と近世社会―二つの百回忌行事からの考察―」(『季刊日本思想史』78号、2011年)
- 竹中友里代「近世石清水八幡宮の所司発給文書にみる神人身分―六位禰宜森本家旧蔵文書を中心に―」(『京都府立大学学術報告 人文』67号、2015年)
お問い合わせ
八幡市役所こども未来部文化財課
電話: 075-972-2580 ファックス: 075-972-2588
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