写真で見る昭和の八幡2
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令和8年(2026年)は昭和元年(1926年)から数えて満100年の節目にあたります。文化財課では、昭和を振り返る企画として、教育委員会所蔵の古写真などを紹介していきます(更新不定期)。
今回は、八幡の玄関口である京阪石清水八幡宮駅(京阪八幡駅)前周辺と、石清水八幡宮への参詣道である一ノ鳥居周辺、放生川沿いの古写真をご紹介します。
昭和34年の京阪八幡駅前

昭和34年(1959年)の京阪八幡駅前の風景です。八幡駅は明治43年(1910年)4月の京阪電車開通にともない設置されました。その後、数回の駅名変更を経つつも、現在に至るまで八幡の玄関口として機能し続けています。
写真からは、ケーブル乗り場への案内板や舗装されていない道路、駅前の古い街並みが見てとれます。
当時を知る方々からの聞き取り調査記録
- 「駅前は食堂や旅館、自転車預かり所が多かった」
- 「正月はケーブル乗り場前に石清水八幡宮への初詣客の行列ができていた」
- 「木津川に水泳場があり、駅前は賑やかだった」
通勤・通学の利用客だけでなく、石清水八幡宮への参拝客や木津川水泳場への来訪者などで非常に賑わっていた様子が伝わってきます。
夜の京阪八幡駅前

舗装前の放生川線(安居橋周辺)

昭和34年(1959年)、国の補助が決まり財源の見通しが立ったことから、京阪八幡駅へ通じる重要道路、町道放生川線の舗装工事が実施されます。
当時を知る方々からの聞き取り調査記録
- 「朝夕は通勤通学の人々が行き交う人通りの多い道だった」
- 「駅までの道はガタガタ道で、“そろばん道”と呼んでいた」
- 「雨が降った時はブルドーザーで均してくれ、それが嬉しかった」
『町政だより』にも、「大きなクボミ、ドロとホコリに、おさらばする日はもう近い!」「月の表面のような穴ボコ」などとあるように、多くの人が利用するものの悪路であったこの道の舗装は、かねてより地域の方々から待ち望まれていました。また、町の玄関口の美化により、観光面でのプラス効果も期待されました。
放生川線舗装工事の様子

この時の舗装工事は、山柴の十字路から平谷を経て高坊に至る347メートルの区間で実施されました。工事は重量車の通行を考慮した工法で行われ、アスファルトコンクリートで舗装されました。また、道の舗装に合わせて水銀灯も設置されました。
昭和40年頃の放生川線(一ノ鳥居周辺)

自転車や徒歩での通勤・通学客の中をバスが走行する様子や、今は見られない旅館の看板が見られます。昭和30年代から50年代に刊行された広報紙を眺めてみると、紙面には毎号のように公共施設の建設や道路の舗装・拡幅、上水道や浄水場の建設などに関する記事が並んでいます。この時代は、急速なインフラ整備により人々の生活様式のみならず、八幡のまちの景観も大きく変化した時期であったといえるでしょう。
その後
その後、昭和44年(1969年)3月には、都市計画事業として駅前広場の整備が計画されます。この計画は、男山団地開発に伴う急激な人口増加や、工場の進出等による流入人口増加に対応するため、バスやタクシーの乗降場を設けつつ歩道を広くとり、安全で近代的な駅前センターに整備しようというものでした。駅前広場は昭和58年(1983年)4月に完成し、現在に至ります。
令和8年4月には、市民の皆さまからの意見やアイディアを反映し、京阪石清水八幡宮駅周辺グランドデザインが策定され、駅前の目指すべき将来像が示されました。時代に合わせて姿を変えてきた八幡の玄関口は、今後どのように変化していくのでしょうか。
参考文献
- 「町道放生川・駅前線を舗装」(『八幡町政だより』第16号、1959年8月)
- 「放生川線の舗装完成」(『八幡町政だより』第17号、1959年9月)
- 「“駅前広場”の建設を計画 50年完成を目標に」(『八幡町政だより』第70号、1969年8月)
- 「待望の駅前広場が完成」(『広報やわた』第227号、1983年4月)
- 「駅前広場が完成」「駅前広場にひろう福祉のまちづくり」(『広報やわた』第228号、1983年5月)
(注)『広報やわた縮刷版 第1巻』(八幡市役所総務部秘書広報課、1986年)参照
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八幡市役所こども未来部文化財課
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