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あしあと

    八幡市の歴史資料のご紹介(令和6年7月3日)

    • [公開日:]
    • ID:9655

    河原崎家歴史資料のご紹介 2

    前回に引き続き、『宇治大路家河原崎家系図』の内容と、関連する史料についてご紹介します。

    『宇治大路家河原崎家系図』(初代から4代)

    宇治大路昌親(うじおおじまさちか)と正法寺

    系図の写真

    『宇治大路家河原崎家系図』(初代昌親)

    系図上で、河原崎家の初代に位置付けられているのが、宇治大路昌親(安正軒)です。室町幕府滅亡の後、天正年中に内里村から八幡郷へ移った昌親は、八幡の「郷侍」の列に加わり、正法寺の塔頭、福泉院の僧である玄誉のもとで書法を学んだと伝わっています。

    八幡清水井の古刹である正法寺は、徳川家康の側室となり、初代尾張藩主徳川義直の生母お亀の方(相応院)の出身である志水家の菩提寺です。

    系図によれば、昌親ははじめ藤本正清の娘を妻とするも子に恵まれず、志水宗清の男子を養子としたと伝わっています。志水宗清は、お亀の方の父親であり、後に尾張藩の家老となる人物です。つまり、系図の記述通りに理解すると、昌親は家康の側室となるお亀の方の実弟を養子に迎えていたことになります。(この男子は7歳で亡くなってしまったようです。)

    また、正法寺には昌親(安正軒)が大檀那として創建したとされる、聖賢院という塔頭が存在していたことが知られており、昌親(安正軒)と正法寺・志水町との深い関係性がうかがえます。

     

    文化・知識人と宇治大路家

    系図の写真

    『宇治大路家河原崎家』(2代から3代)

    系図には、宇治大路家歴代の事績が記されていますが、その中には、昌親以降の宇治大路家の代々と文化・知識人との交友関係をしめす記述も多く見られます。

    系図によると、初代昌親(安正軒)は、養子である志水宗清の男子を亡くした後、後妻の家である井尻家から養子(2代目:昌勝)を迎えています。昌勝については、幼少期に藤原惺窩から儒学を、代々典薬頭を世襲した医家半井氏から医術をそれぞれ学び、平時は同志とよく茶をたしなんだ、との記述があります。

    昌勝にも子がなく、妻の家である能勢家より養子(3代目:昌行)を迎えています。系図によると、昌行は幼少期、松花堂昭乗から書法を学んでいます。後に昌行は、越前福井藩主松平光通の夫人である清池院(国姫)の師となり、彼の筆法は、清池院を通して時の天皇である後水尾天皇の耳に届くほどであったと記載されています。

    昌行の実子である昌頼(4代目)は、松花堂昭乗の弟子として知られる中村久越の娘を娶っています。また、昌頼の父昌行の実母が、清原宣賢の末裔である平野氏の出身であったこともあり、昌頼は清原経賢から吉田神道の奥義を学んだと記されています。

    昌勝・昌行・昌頼は代々の将軍から昌親(安正軒)の朱印地を拝領し、昌頼の代には、宇治大路氏が「八幡郷侍十五人之酋」となったと記されています。これは、石清水八幡宮の安居神事の頭役を勤める脇頭十四人組の筆頭となったことを意味していると思われ、宇治大路氏が八幡の脇頭社士中にて重要な役割を担っていたことを窺わせます。また、昌頼期には、延宝7年(1679)に再興された石清水八幡宮放生会にて、社士として神事の警固役を担うようになったとも記されています。

    このように、昌勝・昌行・昌頼は、それぞれ石清水八幡宮の社士・神人としての役割を果たしながら、藤原惺窩・医家半井氏・松花堂昭乗・中村久越・清原経賢など、京・八幡の文化人との交流や、養子の迎え先である能勢家との関係の中で、儒学・医学・書・茶・和歌・吉田神道等の素養を身に着け、文化・知識人ネットワークの一端を担う存在として、八幡の地に定着していったといえるでしょう。

    『徳川家康朱印状』

    朱印状の写真

    『徳川家康朱印状』

    • 資料群名:河原崎家歴史資料(一括)
    • 員数:1通
    • 形態:折紙(内包紙・外包紙付属)
    • 所有者:八幡市教育委員会

    慶長5年(1600)5月25日、徳川家康は八幡の山上山下に計361通の領知朱印状を発給しています。系図には、宇治大路家の初代昌親(安正軒)は、伏見城にて家康に拝謁し、朱印状を頂戴したとあります。

    河原崎家には、家康から発給された朱印状の原本が伝わっています。内容は、徳川家康が志水町安正(昌親)に対し、八幡庄にて53石の知行を認めるというものです。昌親が拝領した53石という数字は、安居脇頭神人の中でも有数の石高を誇ります。

    年月日の下部に「家康」の署名と、朱色の印が押されているのが分かります。

    河原崎家には、家康以降の将軍の朱印状も伝来しています。石清水八幡宮の神人にとって、朱印状は自分たちのアイデンティティにもかかわる非常に大切なものだったのです。

    宇治から内里村を経て八幡郷へ移り住んだ初代昌親が、志水の地でいかにして地位を築いたのか、詳細については不明です。しかし、系図上に、志水町の郷侍として受け入れられ、お亀の方(相応院)や徳川家と関わり深い志水家から養子を迎えているとの記述がみられることは大変興味深いです。この関係性が、後代のさまざまな文化人との交流や、昌親(安正軒)が安居脇頭神人の中でも有数の石高を領するようになることに繋がったのかもしれません。(文化財課:金子秋斗)

    用語集

    • 郷侍:ごうざむらい

    土着の武士、地下侍衆。八幡における郷侍は、江戸時代に石清水八幡宮の警固社士となる家をさすか。正法寺を拠点とする石清水八幡宮警固社士らは、後の史料で「志(正)法寺社士」とも呼称されている。社士は侍分の神人。

    • 正法寺:しょうぼうじ

    八幡清水井の地に建つ寺院で、鎌倉時代の創建と伝わる。室町時代には、後奈良天皇の勅願寺として発展、志水家の娘・お亀の方(相応院)が家康の側室となったことで繁栄。

    • 徳川義直:とくがわよしなお

    徳川家康の9男であり、御三家である尾張徳川家の祖(初代尾張藩主)。

    • お亀の方(相応院):おかめのかた(そうおういん)

    志水宗清の娘。徳川家康の側室。初代尾張藩主・徳川義直の生母。正法寺や石清水八幡宮の保護をはじめ、八幡の発展に大きく寄与した。

    • 藤原惺窩:ふじわらせいか

    織豊期から江戸初期の儒学者。林羅山など多くの弟子をもち、徳川家康にも重用された。

    • 能勢家:のせけ

    系図によれば、摂津能勢氏の支流で乙訓郡今里村(現長岡京市)を本拠とした今里能勢氏。

    • 松花堂昭乗:しょうかどうしょうじょう

    男山の瀧本坊の住職。晩年、泉坊の一角に松花堂という庵をたて隠居生活を送った。和歌や絵画・書に長けており、寛永の三筆の一人に数えられる。

    • 中村久越:なかむらきゅうえつ

    中村久六大江直紀。石清水八幡宮の警固社士。松花堂昭乗の門人。能書家として知られ、加賀藩主前田利常の祐筆となる。

    • 清原宣賢:きよはらののぶかた

    戦国時代の公卿、明経博士。吉田神道を創始したとされる吉田兼倶の三男。

    • 吉田神道:よしだしんとう

    室町時代におこった神道の一流派。吉田兼倶が儒教・密教・道教・陰陽五行説などの影響をうけて説いたもの。

    • 脇頭十四人組:わきとうじゅうよにんぐみ

    家康が山上山下に発給した朱印状は、計361通だったが、4代将軍家綱のころから、神人の組ごとに1通の朱印状(組朱印)が発給されるかたちとなる。この時期から34通程に減少。河原崎家(宇治大路家)は脇頭十四人組、他姓神職河原崎家相続後は、他姓座七人組にも属す。安居神事と本頭・脇頭社士については、前回記事参照。

    参考文献

    • 『城州八幡愚聞鈔』(名古屋市蓬左文庫所蔵)。
    • 竹中友里代「石清水八幡宮領における門前町の自治と尾張藩家老志水家」(岸野俊彦編『尾張藩社会の総合研究』六、清文堂、2015)。

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