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あしあと

    豊臣秀吉朱印状ほか歴史資料を寄贈いただきました

    • [公開日:]
    • ID:10912

    令和8年3月、中村悦子様より八幡市教育委員会に「内里長村家資料」を寄贈いただきました。

    資料写真1

    内里長村家資料(一部)

    長村(おさむら)家は古くから内里に居住し、江戸時代には内里村が京都の公家・壬生(みぶ)家の所領となった所縁から、5代にわたり壬生家の家臣をつとめた家です。

    幕末期の人物である長村保固(おさむら・やすかた)は、壬生基修(みぶ・もとおさ)に家臣として仕え、文久3年(1863)には、八月十八日の政変に敗れ失脚した三条実美・壬生基修ら7人の尊王攘夷派公家が京から長州(現在の山口県)、その後太宰府に亡命した「七卿落ち」(しちきょうおち)にも付き従いました。明治期には、初代 宇治・久世郡長となるなど南山城地域の近代化に貢献した人物としても知られています。

    寄贈いただいた資料のなかには、保固と壬生基修との関係を示す文書や、宇治・久世郡長の辞令書、江戸時代に長村家が相続していた石清水八幡宮御馬副神人(おうまぞえじにん)に関する朱印状2通などが含まれています。

    寄贈いただいた資料は大切に保管し後世に伝えるとともに、文化事業及び調査・研究等に長く活用させていただきます。

    内里長村家資料のご紹介1

    朱印状は、主に戦国時代から江戸時代にかけて、将軍や大名が発給した、朱印が押された公文書のことを指します。特に江戸時代では、将軍が大名や公家・寺社などに対する領地の認定や、特権を与えるために発給した、いわば将軍や幕府お墨付きの証明書ともいうべき文書です。

    豊臣秀吉朱印状

    資料写真2

    豊臣秀吉朱印状

    天正17年(1589)12月17日、豊臣秀吉から淀の石清水八幡宮御馬副神人(河原崎孫十郎)に対し、美豆郷内の6石を宛行う旨が記された朱印状です。御馬副神人とは、石清水八幡宮の放生会の際、朝廷から進献された威儀御馬(神事の威容を整える神馬)の側に付き添う役割を担った神人のことをさします。

    朱印状の包紙には、「七座組 御馬副 当名 長村保固」と記された付箋が貼り付けてあることから、長村保固が御馬副神人を相続していたことが分かります。別の文書には、長村家は江戸時代の中頃に御馬副神人を相続するようになったと記載されています。

    秀吉はこの朱印状を発給した同年(天正17年)、母・大政所の病気平癒祈願のため、石清水八幡宮本社の廻廊を再興しています。また、秀吉は神応寺や常徳寺など八幡の社寺ともゆかりの深い人物でもあります。

    八幡において秀吉の朱印状は、市内社寺に現存する事例を除けば、旧・社士家など個人宅に写し(複製)が伝来している事例がありますが、原本が伝わった事例は決して多くなく大変貴重です。

    徳川家康朱印状

    資料写真3

    徳川家康朱印状

    慶長5年(1600)5月25日、徳川家康から同じく石清水八幡宮の御馬副神人・河原崎孫十郎に宛てられた朱印状です。

    この朱印状が発せられた慶長5年(1600)5月25日、家康は八幡に361通もの朱印状を発給したことが分かっています。この朱印状は、八幡に発給された361通の朱印状のうちの1通であり、家康が八幡を手厚く保護したことを示す文書です。

    秀吉・家康という、2人の天下人から発せられた朱印状は、中世末期から江戸時代における八幡の特殊性・重要性や、八幡と天下人とのつながりを物語る重要な史料であるといえます。(文化財課:金子秋斗)

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    八幡市役所こども未来部文化財課

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