ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

検索

閉じる

あしあと

    八幡市の歴史資料のご紹介(令和6年6月5日)

    • [公開日:]
    • ID:9588

    河原崎家歴史資料のご紹介1

    本年1月、河原崎順子様相続人より、河原崎家歴史資料(一括)を寄贈いただきました。

    河原崎家(八幡岸本)は、江戸時代の八幡において石清水八幡宮の安居脇頭神人をつとめた社士の家であり、明治期には、初代八幡町長 河原崎昌期をはじめ、数代にわたり町長・町議会議員を輩出するなど、近代にいたるまで地域における指導的役割を果たしました。

    八幡の地において、長きにわたり重要な役割を担ってきた同家の歴史資料は、わが市の歴史を知るうえでも大変貴重な史料です。このたび寄贈いただいた歴史資料につきまして、文化財課では現在、整理・調査を進めています。ホームページでは、整理・調査の過程で分かったこと、新出の古文書等について紹介していきます。(更新不定期)

    (注)なお、河原崎家歴史資料(一括)は現在、整理・調査中のため、閲覧・公開等には対応しておりません。閲覧・公開については、準備が整い次第HPにてお知らせいたします。

    『宇治大路家河原崎家系図』

    系図の画像

    『宇治大路家河原崎家系図』(巻頭)

    • 資料群名:河原崎家歴史資料(一括)
    • 員数:1巻
    • 形態:巻子装(法量:タテ30.1×ヨコ637.3)
    • 所有者:八幡市教育委員会
    • 概要

    教育委員会による過去の古文書調査や研究等で、河原崎家は室町幕府の奉公衆をつとめた宇治の国人である宇治大路氏を由緒とする家であり、江戸時代中期に石清水八幡宮の他姓神職をつとめていた河原崎家を相続したことで、河原崎姓に改姓していることが分かっていました。つまり、河原崎家は江戸時代中期頃まで、宇治大路という姓を名乗っていたことになります。

    本系図は、宇治大路昌親(初代)から明治時代初期の河原崎安親(9代)にいたるまでの嫡流と、その兄弟姉妹に関する記述があります。巻頭部には「山城州宇治郡宇治大路氏系譜」として、氏族の出自が記されています。そこでは、後に紹介する鎌倉時代の人物とされる宇治大路左衛門尉平成重や、戦国時代の人物とされる宇治大路駿河守平国時の功績が称えられています。

    系図は、続紙(巻子装)に初代 昌親から明治期の安親までの人物が記載されていますが、時期によって料紙の質・大きさが異なっており、その時々の人によって書き継がれていったことが分かります。はじめにこの系図が作成されたのは、記載事項や、料紙の変化からみて、江戸時代中期頃、つまり宇治大路から河原崎への改姓の時期であったと考えられます。

    系図という史料の性格上、記載内容については慎重に検討していく必要がありますが、この系図には、これまでの古文書調査の成果を裏付ける記述や、室町幕府とも関連する宇治大路氏の由緒、宇治大路から河原崎への改姓に関する記述もみえ、八幡のみならず南山城地域の歴史を考えるうえでも、貴重な情報となる可能性を秘めている史料だといえます。

    宇治大路左衛門尉平成重(うじおおじさえもんのじょうたいらのなりしげ)

    宇治大路氏の祖とされる人物は、宇治大路左衛門尉平成重という人物です。

    系図によれば、宇治大路氏は鎌倉幕府の初代執権 北条時政を祖とする氏族であると伝わっています。時政の四代後、北条光時(名越光時)が、寛元4年(1246)の政変により、伊豆へ配流となった際、光時の孤児である成重とその母親は山城国(現在の京都府)宇治大路郷(現在の宇治市乙方周辺か)に落ち延びたと記されています。宇治大路郷の長をつとめていた老翁が、この母親の父であったことが背景にあったようです。宇治に逃げ延びてきた成重は、郷の長老のもとで成長し、宇治大路を姓とするようになったと伝わっています。

    宇治大路駿河守平国時(うじおおじするがのかみたいらのくにとき)

    系図の画像

    『宇治大路家河原崎家系図』(成重~国時)

    室町時代末期には、宇治大路駿河守平国時という人物が、将軍足利義輝・義昭に仕えていたと記されています。国時は、同じく宇治を本拠とする島玄蕃昭光と親戚関係にあったと記されており、この二人は将軍義昭から偏諱を賜ったとされています。

    国時は、槙島城に籠城する将軍足利義昭を、織田信長が攻めた槇島城の戦いにて戦死したとされていますが、国時の子である伝次郎時兼(でんじろうときかね)・修理亮昌親(しゅりのすけまさちか)の兄弟が、戦禍を逃れ綴喜郡内里村に落ち延びたと記されています。この兄弟のうち、弟の修理亮昌親が天正年中(1573~1592)に八幡へ移住し、宇治大路の家を伝えていくこととなるのです。

    ページの冒頭で述べたように、河原崎家は、室町幕府の奉公衆である宇治大路氏を由緒とする家であることが分かっていました。最後に、由緒の根拠として認識されていたと思われる史料についてご紹介します。

    三淵藤英書状(みつぶちふじひでしょじょう)

    書状の画像

    「三淵藤英書状」

    『宇治大路家河原崎家系図』の冒頭には、「三淵大和守藤英」という人物が「宇治大路駿河守(国時)」に宛てた一通の書状が貼継がれています。日付は10月20日とありますが、年紀は不明です。

    三淵藤英は、室町幕府将軍 足利義輝・義昭に仕えた幕臣であり、将軍直属軍である奉公衆の一人です。異母弟には、織田信長・豊臣秀吉に仕えた細川藤孝(幽斎)がいます。

    書状の冒頭に、「御折紙披見候」とあることから、先に国時が藤英に宛てた書状に対し、藤英が返信したものだと考えられます。内容は、藤英から国時へ、「お手紙を拝見しました。何事もなく領地にお入りになられたとのこと、大変おめでたいことです。そちらへ使者を遣わしたので、ご用があれば後日の書状にておっしゃってください。返事を待っています。以上、謹んで申し上げます。」というような意味合いになります。

    この書状は、系図中で国時の功績が語られる中でも紹介されています。室町幕府の奉公衆である三淵藤英の書状が、河原崎家の由緒を物語る系図の冒頭に貼り継がれ、先祖の功績の中で説明されているということは、河原崎家(宇治大路氏)がこの書状を根拠として、幕府の奉公衆を由緒とする氏族であると認識していたことを物語っています。(文化財課:金子秋斗)

    用語集

    • 安居脇頭神人:あんごわきとうじにん
      神人(じにん)とは、神社に仕え、神事・社役等の諸役に奉仕した人々。なかでも、石清水八幡宮の安居本頭神人・安居脇頭神人は、江戸時代の八幡において徳川将軍家の武運長久と、天下安穏を祈願する神事であった安居神事において、中心的な役割である頭役を担う神人のことをいう。
    • 社士:しゃし
      武士身分の神人。神事の際の警固などを担っていた。
    • 奉公衆:ほうこうしゅう
      室町幕府の将軍に近侍した御家人、将軍直属の親衛隊。
    • 国人:こくじん
      各国の荘園等に住む在地の領主、国衆とも。なかには戦国大名化する者もあった。
    • 他姓神職:たせいしんしょく
      石清水八幡宮の神職は、男山に八幡神を勧請した僧 行教の一族である紀氏の神職と、それ以外の氏族(他姓)の神職とで構成されていた。
    • 北条時政:ほうじょうときまさ
      鎌倉時代前期の武将で、鎌倉幕府初代執権。執権は幕府の政所長官。将軍を補佐し政務を統轄した。時政以降、北条氏の世襲。
    • 槇島玄蕃昭光:まきしまげんばあきみつ
      宇治槇島城の城主で、室町幕府の奉公衆。槇島城の戦いでの敗戦後も将軍義昭に付き従うが、幕府滅亡後は豊臣家に仕え、大坂の陣では豊臣方として戦った。
    • 偏諱:へんき
      貴人の名のうち、一方の字。将軍や大名は、功臣への褒賞などとして自身の偏諱を与えており、偏諱を賜ることは非常に名誉なこととされていた。将軍義昭の場合は「昭」の字。
    • 槙島城の戦い:まきしまじょうのたたかい
      元亀4年(1573)、宇治槇島城に籠城する将軍 足利義昭と織田信長との戦い。義昭が敗れたことにより、室町幕府は事実上滅亡したといわれている。槇島は、巨椋池にうかぶ島であり、槇島氏の本拠地。

    参考文献

    • 竹中友里代「日記にみる地震と八幡」(八幡市教育委員会『内里八丁遺跡発掘調査概報 ―上津屋土地区画整理事業に伴う―』八幡市埋蔵文化財発掘調査概報第13集、1994年)。
    • 坂東俊彦「幕末期における情報化社会の成立とその展開―石清水八幡宮社士・河原崎家の事例を手がかりにして―」(『奈良史学』16号、1998年)。
    • 『宇治市史』2 中世の歴史と景観(1974年)。

    お問い合わせ

    八幡市役所こども未来部文化財課

    電話: 075-972-2580 ファックス: 075-972-2588

    電話番号のかけ間違いにご注意ください!

    お問い合わせフォーム