八幡市の歴史資料のご紹介(令和6年8月26日)
- [公開日:]
- ID:9752
河原崎家歴史資料のご紹介3
『宇治大路家河原崎家系図』3
前回に引き続き、「宇治大路家河原崎家系図」の内容と、関連する史料をご紹介します。
宇治大路家による河原崎家相続
宇治大路(河原崎)昌植
宇治大路家が、石清水八幡宮の他姓神職である河原崎家の名跡を相続するのは、5代目の宇治大路昌植(うじおおじまさのり)の時期です。昌植は、前回の史料紹介に登場した昌頼(4代目)の実子です。
系図には、昌植が河原崎家を相続した経緯が記されています。そこには、宝永5年(1708)、相続する者がおらず一時預かりとなっていた他姓座河原崎源三郎の名跡を、昌植が譲り受けることで相続し、河原崎へと改姓したと記されています。翌年(1709)4月、昌植は神職の許状を授かり、以後、子孫は代々神官として放生会や臨時祭など石清水八幡宮の神事に奉仕していくこととなります。
しかし、河原崎家の古文書を見ていると、宇治大路から河原崎に改姓した後も、宇治大路の苗字を用いて安居脇頭神人としての勤めを果たしている様子がみられます。つまり、改姓にともない安居脇頭神人から他姓神職へ完全に転職してしまったのではなく、安居脇頭神人と他姓神職とを兼帯しているというのが実態でした。このことから、河原崎家には「脇頭十四人組」と「他姓座七人組」という、2組分の朱印状が伝来しています。
昌直・昌植兄弟と能勢家・河原崎家
宇治大路昌直(岡部東安)
昌植には、昌直という兄がいました。系図には、兄昌直の事績について興味深い記述がみられます。
昌直は幼少時に和田宗允から儒学を学び、また、山脇道作に師事し医術を学んだと伝わっています。系図によれば、貞享4年(1687)昌直は官医を勤めていた岡部益安に見出され、益安の後継者として岡部家の養子となったと記されています(岡部東安、東庵玄謙)。その後、昌直(東安)は昇殿を許され霊元天皇の侍医となったと記されています。このように、昌植の兄昌直(東安)は天皇に近侍する医者だったのです。
昌直(東安)は昌頼の一男でしたが、宇治大路の家を継承したのは弟の昌植です。兄の昌直(東安)は「能勢道益」として、文字通り父祖の出身である能勢を称してもいました。能勢を名乗った昌直が後に岡部家の養子となり、宇治大路家を継いだ昌植が河原崎の名跡を相続しているということは、昌植・昌直(東安)兄弟にとって宇治大路・能勢という、自身の由緒となる家名が事実上断絶する時期であったということができます。このような背景から、家の由緒を後世にのこすため、系図が作成されたと考えることができるかもしれません。
系図に用いられている料紙を見ると、昌植を境に紙の形質が切り替わっていることから、系図が作成されたのはこの時期であったと考えられます。
添付ファイル
- PDFファイルの閲覧には Adobe Reader が必要です。同ソフトがインストールされていない場合には、Adobe 社のサイトから Adobe Reader をダウンロード(無償)してください。
『源家能勢氏系図』
『源家能勢氏系図』巻頭
- 資料群名:河原崎家歴史資料(一括)
- 員数:1巻
- 形態:続紙(内包紙・外包紙あり)
- 所有者:八幡市教育委員会
今里能勢氏
河原崎家歴史資料の中には、養子として宇治大路家を継いだ昌行(3代目)の出身である能勢家の系図も伝来しています。
能勢家は、清和源氏の一流で、摂津国能勢郡(現在の大阪府豊能郡能勢町周辺)を本拠とした武士の氏族です。しかし、この系図に記載されている能勢氏は、摂津能勢氏の支流であるとされる、山城国乙訓郡今里(現在の京都府長岡京市周辺)地域を本拠とした今里能勢氏です。
室町時代、能勢氏を含む山城国西岡地域周辺の国人・地侍は「西岡被官人」「西岡衆」として歴史に登場します。彼らは室町将軍家や細川家など有力守護大名家の被官として組織され、山城国内における成立期室町幕府権力を支える軍事的基盤ともいえる存在でした。
『宇治大路家河原崎家系図』と『源家能勢氏系図』の関係性
能勢頼之
『源家能勢氏系図』は、八幡の宇治大路昌勝(2代目)の養子となる昌行(3代目)の実父で、豊臣秀頼と越前守松平忠直に仕えたとされる能勢頼之(のせよりゆき)という人物の事績について詳細に記されており、頼之を特に重要視する意図が読み取れます。
『源家能勢氏系図』の頼之以降は、昌行・昌頼・昌直・昌植と、宇治大路家の人物の名が続きます。このことは、本系図において、宇治大路家(河原崎家)を相続した昌行とその子孫が今里能勢氏の嫡流としても記載されていることを意味しています。河原崎家に伝来した2つの系図は、相互補完的な内容を備えており、不可分の関係だったといえるでしょう。
昌直(東安)が「能勢道益」として能勢を称していた事実からもわかるように、宇治大路家の養子となった昌行(3代目)から昌直(東安)にかけての時期は、昌行の出身である能勢の家名・由緒が強く意識された時期であったようです。
『宇治大路家河原崎家系図』において昌植の代が一つの区切りとなっているのと同様に、『源家能勢氏系図』も昌植について「昌頼の家督を継ぎ、八幡郷に住む」という記述を最後に途切れています。このことは、2つの系図が近しい時期、おそらく昌直・昌植兄弟から昌植の実子である重昌(しげまさ、6代目)の時期にかけ、関連性をもって作成されたことをうかがわせます。
これら系図史料に記載されている人物や歴史的事柄の真偽については、河原崎家に伝来したその他膨大な古文書や、同時代の八幡および周辺地域の史料を組み合わせて慎重に調査し、判断していく必要があります。特に江戸時代以前の人物・事柄について、記されていることすべてを事実であると言い切ることは困難です。しかし、近世から近代にかけて八幡の地で石清水八幡宮の神人として重要な役割を担ってきた河原崎家(宇治大路家)が、いかにして八幡の地に定着し、自家の由緒を認識し継承してきたのかを知ることができるという点で、八幡にとって貴重な史料であると言えます。(文化財課:金子秋斗)
用語集
- 他姓神職(たせい・たしょうしんしょく)
紀姓以外の神官(他姓禰宜)。神事の際に神職を補佐する神人。神事を補佐する神人は他姓の他に「大禰宜」「小禰宜」「六位禰宜」がおり、これら神事を補佐する神人を総称して「四座禰宜」と言った。
- 名跡(みょうせき)
代々受け継がれる個人・家の名(名字・苗字)。名跡を継ぐことで、名字に付随する役職・領地なども継承した。石清水八幡宮の他姓座の名跡は、徳川家康が発給した朱印状に記載される「淀他生(ママ)河原崎喜太郎・同源三郎・同彦右衛門」など7家。宇治大路昌植が継いだのは「河原崎源三郎」の家。(例:歌舞伎役者の「襲名」など)
- 放生会(ほうじょうえ)
旧暦8月15日(現在は9月15日)に行われる例祭。山上から3基の御鳳輦を頓宮に迎え、勅使(天皇の使い)が幣帛を奉る。その後、男山の裾を流れる放生川に鳥魚を放ち、天下泰平を祈願する。貞観5年(863)年に始まり、天暦2年(948)勅祭(朝廷から勅使が遣わされ奉幣する祭)となる。中世から江戸時代にかけて断絶するが、江戸時代中期に再興。石清水祭と名称をかえ現在まで続く。
- 臨時祭(りんじさい)
恒例の祭(放生会)に対し臨時に行う祭のこと。石清水八幡宮では、旧暦3月午の日に行う。天慶5年(942)平将門・藤原純友の乱平定の報賽として臨時に勅使を立て歌舞を奉じたことにはじまる。放生会と同じく中世に断絶し、江戸時代に再興されるも、現在は行われていない。
- 兼帯(けんたい)
2つ以上の職務や役目をかけもちすること。
- 和田宗允(わだそういん)
江戸時代前期の儒学者で、林羅山の弟子。
- 山脇道作(やまわきどうさく)
山脇玄心。江戸時代前期の医学者。日本ではじめて人体解剖をおこなった人物とされる山脇東洋の祖父にあたる。
- 岡部益安(おかべえきあん)
岡部益庵法眼玄哲。江戸時代前期の医者。はじめ美濃国(現在の岐阜県)加納藩主松平光重に仕える。後に京に移り名をはせ、後水尾天皇・後西天皇・霊元天皇の御脈を拝診し、侍医(宮中にて天皇を診察し、医薬を供奉することをつかさどる医者)となったと伝わる。
- 昇殿(しょうでん)
宮中清涼殿(せいりょうでん)の殿上間(てんじょうのま)や上皇・女院の御所に昇ること。家格や功績により許され、これを許された人を殿上人(てんじょうびと)という。
- 西岡(にしのおか)
山城国乙訓郡・葛野郡(現在の京都市西京区・向日市・長岡京市の一部)の桂川と西山丘陵に挟まれた一帯の地域。古来より公家や寺社の荘園が集中していた。室町時代、足利将軍家の直轄地となったことにより、西岡の荘園領主は奉公衆や細川家をはじめとする守護大名家の被官として組織されるようになる。各領主(国人・地侍)はそれぞれ城郭を構え、各々の利害に応じて連携し、戦国期には地縁的な連合体「惣国」を形成していた。
- 守護大名(しゅごだいみょう)
室町時代、幕府から命じられ各国において軍事警察権の行使、御家人の統制などを担っていた守護という役職のうち、任国に勢力を張って領主となった者。
- 被官(ひかん)
守護大名などに仕え、家臣化した下級の武士。
参考文献
- 竹中友里代「近世石清水八幡宮の所司発給文書にみる神人身分ー六位禰宜森本家旧蔵文書を中心にー」(『京都府立大学学術報告』人文 第67号、2015年)。
- 末柄豊「『能勢家文書』と『能勢氏系図』」(東京大学史料編纂所研究成果報告2010-1『真如寺所蔵 能勢家文書』、2010年)。
- 『長岡京市史』本文編1(1996年)。
- 長岡京市教育委員会『勝龍寺城関係資料集』(長岡京市歴史資料集成1、2020年)。
- 向日市教育委員会・公益財団法人向日市埋蔵文化財センター『物集女城跡総合調査報告書』(向日市埋蔵文化財調査報告書第125集、2023年)。
- 『近江坂田郡志』下巻 人物志(1913年)国立国会図書館デジタルコレクション参照。
- 京都府医師会編『京都の医学史』(思文閣出版、1980年)。
お問い合わせ
八幡市役所こども未来部文化財課
電話: 075-972-2580 ファックス: 075-972-2588
電話番号のかけ間違いにご注意ください!