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あしあと

    八幡市の歴史資料のご紹介(令和6年12月)

    • [公開日:]
    • ID:10012

    河原崎家歴史資料のご紹介5

    江戸時代の日記

    河原崎家歴史資料の特色として、古文書のみならず、日記などの記録類(古記録)が多く伝来していることがあげられます。江戸時代末期から明治時代初期の河原崎家当主による日記『嘯雪斎日記』などは、昭和の『八幡市誌』編さん時の基礎資料としても活用されました。そこには、幕末から明治初期にかけての河原崎家の人々の動向、また、同家が町内において指導的役割を担っていたことから、鳥羽・伏見の戦いや神仏分離を経て近代化へと歩みはじめる八幡のまちについての記述もみられ、わが市の歴史や成り立ちを知るうえで貴重な史料です。

    資料紹介写真1

    天保4年『嘯雪斎日記』(表紙)

    日記は、書き手が時間の流れにそって時々の出来事や行動を書き記したものであるため、読み進めることにより、書き手が生きた時代の出来事を長期的・通時的に知ることができます。今回からは、河原崎家に伝わったこれらの日記のうち、石清水八幡宮の神事に奉仕した他姓座神人の職務に関する新出の日記と、そこに記録されている出来事について紹介していきます。

    神人の業務日誌『他姓座日記』

    史料紹介写真2

    宝暦7年・8年・9年『他姓座日記』(表紙)

    • 資料群名:河原崎家歴史資料
    • 作成者:(他姓座)
    • 年代:宝暦7年(1757)から同9年(1759) 
    • 員数:1冊
    • 所蔵者:八幡市教育委員会

    河原崎家には、同家が江戸時代中期に名跡を相続した、石清水八幡宮の他姓座神人の業務日誌ともいうべき日記が数多く伝来しています。

    間に抜けている年代があるものの、宝暦3年(1753)から天保14年(1843)までの日記が非常に良好な状態で伝わっています。これらの日記は、他姓座の神人たちが石清水八幡宮の神事においてどのような役割を担っていたのか、またその変遷などを知る手がかりとなります。

    しかし、年中行事とよばれる石清水八幡宮において毎年決まった時期に行われる恒例の神事や、日常的な業務については、特段変わった出来事がない限り、「例の如し」(例年通り行われた)と簡略に記録される傾向にあります。意外に思われるかもしれませんが、毎年決められた時期に同じ神事を行っているので、詳細に記す必要がないと判断されたのです。

    一方で、その時々に問題となっていた出来事や例外的な出来事、重大な事件が起こった際には、ことの発端や経緯、関連する文書の写しにいたるまで詳細に記録されました。例として、河原崎家に伝来した宝暦7年(1757)から同9年(1759)の記録である『他姓座日記』の、宝暦9年2月9日条を見てみましょう。(翻刻文がダウンロードできます。)

    『他姓座日記』宝暦9年2月9日条

    資料紹介写真3

    『他姓座日記』宝暦9年2月9日条(左端から4行目)

    添付ファイル

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    坊舎の火災

    冒頭部には、「(宝暦9年2月)9日くもり。午後2時ごろ、男山山上の東谷、橘本坊より火災が発生し、井関坊・閼伽井坊・新坊・祝坊・蔵之坊(・杉本坊)の7坊が焼失した」と書かれています。つまりこの日の記録は、男山の坊舎火災という非常時の記録です。

    明治の神仏分離以前、江戸時代の男山には、いわゆる「男山四十八坊」といわれるように多くの坊舎が建ち並んでいました。坊舎の数は時期により変動がありますが、江戸時代の絵図などを見ると建物が密集して描かれていることから、延焼しやすい環境であったことが想像できます。

    坊舎火災時の対応

    八幡の人々は、山上の坊舎火災にいかに対応したのでしょうか。

    日記には、「社務中(新善法寺祐清)・諸司・神官・諸神人・社僧・社士はもちろん、町人や百姓にいたるまで、それぞれ神前に控えた」と、記されています。石清水八幡宮や坊の関係者のみならず、町人や百姓にいたる多くの人々が身分を問わず、総出で石清水八幡宮の神前に参集し、対応しようとしていることが分かります。その後は、社務中の指示のもと、各々が末社・諸門・諸堂を守護する態勢を整えています。

    他姓座神人たちのはたらき

    先述の通り、この日記は石清水八幡宮の他姓座神人の業務日誌であるため、他姓座をはじめとする四座中の動向に主眼を置き記録されています。

    資料紹介写真4

    『他姓座日記』宝暦9年2月9日条

    火災に対応した神人の名前も知ることができます。他姓座からは嶋田弥二郎・小中村小六・河原崎求馬・河原崎主水・神原庸助・河原崎中書の6名が参仕したようです。

    山上の本宮周辺の動向としては、「神輿を舞殿にお出しになった。駕輿丁神人がこの役を勤めた。御内陣には御殿司・入寺が控え、大床には俗別当と検知、階下には四座中の神人が控えた。その他の神人らは役職ごとに内外の廊に控えた」と記録されています。僧侶や神官、神人らが延焼による本宮の動座(避難)に備え、御鳳輦を用意し待機していたものと考えられます。しかし、後の一文には「本宮が動座することはなかった。これは石清水八幡宮全体にとって喜ばしいことである」と見えることから、実際に山上の本宮周辺まで火が迫ってくることはなかったようです。

    石清水社御神体の救出

    本宮周辺には火の手が回らなかった一方、坊舎付近に位置する石清水社の周辺では状況が異なっていました。

    「石清水社には東竹殿(東竹延清か)が詰めていた。社務中の指示により、他姓座の河原崎中書・神原庸助の2人と、六位座の森元内匠が石清水社に出向いた。火の勢いが増してきたため、東竹殿は石清水社の御神体を護国寺の辺りまでお持ちだしになられた」とあり、石清水社周辺では火が勢いを増し迫ってきており、急遽、御神体を遷座(避難)させたことが分かります。

    石清水社写真

    石清水社・神水舎

    他姓座神人らは社務中の指示でこれに同行して石清水社の御神体を運び出し、手助けに来た神官らとともに無事に若宮まで避難させました。具体的には遷座の道中、他姓座の神原庸助が前払役を勤め、河原崎中書は畳などを持ち、御神体とそれを運ぶ東竹殿を火から守護したと記録されています。

    鎮火とその後

    日記には、「午後4時ごろ鎮火した」と記されており、火は2時間ほどで鎮火したようです。7つの坊舎が焼失したものの、「石清水社をはじめとする末社や山上の堂などは被害を免れた。これは石清水八幡宮全体の喜びである」とあり、末社や山上諸堂への延焼を免れたことについて大いに喜んでいます。神人にとっては、本宮や末社などに被害が及ばなかったことが何より重要でした。また、神人たちは夜間の警備を担当するよう命じられていることも分かります。

    この日の記録からわかること

    ここまで、宝暦9年2月9日の記事を見てきました。この日の記録からは、坊舎の火災という非常事態における、他姓座神人をはじめとする石清水八幡宮および八幡の人々の動きが見てとれました。史料の性格上、内容は他姓座神人の動向が中心ではありますが、階層や役職を問わず、八幡の人々が総出で山上坊舎の火災に対応していたことが窺い知れました。

    しかし、火災時の記録であるにもかかわらず、火消(ひけし)に関する具体的な記述が一切見られないことを不思議に思われた方もいるのではないでしょうか。このことは、消火活動が全く行われなかったことを意味するのではありません。

    江戸時代後期の八幡では、石清水八幡宮および山上諸坊の火災時、祠官・僧侶・神人や町人も火消にあたっていました。また、役負担として神人や町人らの消防が組織・制度化されていたことも分かっています。

    ところが、この日記には他姓座神人が火消にあたっている様子や、消火活動について一切記録されていませんでした。このことは、火災時における他姓座をはじめとする四座中神人の役割として、消火活動より本宮や石清水社などの末社を守護することが重要視されていたことを意味します。

    他姓座神人ほか四座中の神人は、石清水八幡宮の神官の補佐役として神役に奉仕する神人であり、神前に御神供を供するなど、普段から御神体に近い位置での役割が求められました。したがって、火災という非常時においても、本宮や末社などの御神体近くでそれらを守護する役割が求められたと考えられます。つまり、消火活動は他姓座神人の役割の範囲外であったため、彼らの業務日誌上では詳細に記録しておく必要がなかったのです。(文化財課:金子秋斗)

    用語集

    • 古記録(こきろく)

    歴史学では、一般的に書き手が特定の相手(受取人)に向けて意思を伝達することを目的として作成されたものを古文書というのに対し、特定の相手(受取人)を想定せず、書き手が自らの意思を一方的に記録することを目的として作成されたものを古記録という。

    • 他姓座神人(たせいざ・たしょうざじにん)

    石清水八幡宮の神事の際に神官の補佐をつとめる神人。他姓禰宜・他姓神職とも。他姓とは紀姓(石清水八幡宮を創建した行教の出自)以外の姓のこと。神事を補佐する神人はほかに「大禰宜」「小禰宜」「六位禰宜」がおり、これらを総称して「四座中」「四座禰宜」といった。

    • 坊舎(ぼうしゃ)

    石清水八幡宮に勤める僧侶が居住する建物。僧坊や宿坊。中世後期から江戸時代においては、各坊が大名家と個別に師檀関係を結ぶなど、石清水八幡宮の信仰や経済において重要な役割を果たした。

    • 河原崎主水(かわらざきもんど)

    河原崎家(宇治大路家)の初代安勝(昌親)から数え7代目。河原崎安常。河原崎家の系図については「八幡市の歴史資料のご紹介」令和6年6月5日、7月3日、8月26日のページ参照。

    • 石清水社(いわしみずしゃ)

    石清水八幡宮の摂社。八幡宮創建以前からの古社。朝廷や将軍家の祈祷の際には、隣接する神水舎の井戸(石清水井)から湧く神水(石清水)が使われていたと伝わる。

    参考文献

    • 八幡市教育委員会・宗教法人石清水八幡宮『石清水八幡宮 諸建造物群調査報告書(本文編)』(2007年)。
    • 八幡市教育委員会『石清水八幡宮境内調査報告書』(八幡市埋蔵文化財発掘調査報告書第56集、2011年)。
    • 宗教法人石清水八幡宮『石清水八幡宮 本社調査報告書』(2014年)。
    • 坂東俊彦「幕末期における情報化社会の成立とその展開―石清水八幡宮社士・河原崎家の事例を手がかりにして―」(『奈良史学』16号、1998年)。
    • 竹中友里代「近世石清水八幡宮の所司発給文書にみる神人身分―六位禰宜森本家旧蔵文書を中心に―」(『京都府立大学学術報告』人文 第67号、2015年)。
    • 藤本仁文「淀藩出動と石清水八幡宮の領主権―火災時における対応―」(東昇・竹中友里代編『八幡地域の古文書・石造物・景観―地域文化遺産の情報化―』京都府立大学文化遺産叢書第4集、2011年)。
    • 『男山考古録』
    • 『八幡市誌』

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    八幡市役所こども未来部文化財課

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