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あしあと

    八幡市の歴史資料のご紹介(令和6年10月)

    • [公開日:]
    • ID:9847

    河原崎家歴史資料のご紹介4

    石清水放生会関連史料

    9月15日、石清水八幡宮にて、勅祭「石清水祭」が執り行われました。

    石清水祭は、「石清水放生会」として平安時代にはじまります。戦乱などの影響もあり、文明年間(1469~87)から江戸時代中期まで中断していましたが、延宝7年(1679)に約200年ぶりに再興され、幕末まで続きました。その後は、明治新政府による神仏分離政策の影響により、名称や形式が改められる時期を挟みながらも、現在まで旧儀に則り行われています。

    今回は、河原崎家に伝わった放生会に関する史料について紹介していきます。

    『石清水放生会再興式』(写本)

    史料写真

    『石清水放生会再興式』

    • 資料群名:河原崎家歴史資料(一括)
    • 員数:1冊
    • 作成者:宇治大路昌直(岡部東安・能勢道益)
    • 年代:延宝7年(1679)年8月中旬
    • 所有者:八幡市教育委員会

    『石清水放生会再興式』は、延宝7年(1679)に再興された放生会の次第(プログラム)の写本です。

    御鳳輦(ごほうれん)や頓宮(とんぐう)の飾り付けなどといった神事前の準備から書き始められ、15日の神事当日の次第、17日の後片付けに至るまで順を追って書き連ねられています。その他にも、読み上げられた宣命の内容や、遷幸・還幸の際の行列、上卿をはじめ参詣した貴族の名前、舞楽を奉納した楽人の名前なども記録されており、約200年ぶりに再興した放生会がどのような順序で執り行われ、そこにどのような人々が参加していたのかが分かります。

    史料写真

    『石清水放生会再興式』(8月14日・15日の次第)

    史料写真

    『石清水放生会再興式』(宇治大路昌直によるあとがき)

    巻末には、祭事の次第とは別に、「書放生勅会再興式後」(放生勅会再興式の後に書す)と題した「あとがき」ともいえる文章が見られます。文末に「鴿峯麓書生源昌直敬書」(男山の麓に住む学生源昌直が敬いて書く)と見えることから、このあとがきは宇治大路昌直(前回系図参照、河原崎昌植の兄岡部東安・能勢道益)が放生会の再興を祝して記したものであることが分かります。

    文中には、この『石清水放生会再興式』という書物について、昌直(東安・道益)が祀官家のとある人物に依頼し、原本を書写させてもらった旨が記されています。貴重な書物はこのように手書きで書写することで伝来しました。

    『石清水放生会記』(写本)

    史料写真

    『石清水放生会記』

    • 資料群名:河原崎家歴史資料(一括)
    • 員数:各1冊
    • 作成者:不明
    • 年代:江戸時代中期
    • 所有者:八幡市教育委員会

    『石清水放生会記』は、室町時代の公家であり学者でもあった清原良賢らの日記から石清水放生会に関する記述を抜粋し、まとめた書物(部類記)の写本です。

    表紙にはそれぞれ「明徳四年源義満公参向清原良賢真人記」、「応永年中源義持公参向清原良賢真人記」と明記されており、室町幕府3代将軍足利義満と4代将軍足利義持が放生会の上卿を勤めた際の記録が収録されていることが分かります。良賢の日記だけではなく、明徳の日記には小槻兼治の日記、応永の日記には万里小路時房の日記も収録されています。

    足利将軍家と石清水八幡宮、特に祀官家の1つである善法寺家とは、同家が将軍家の祈祷を受け持つ御師職(おししき)であったことや、義満の生母が善法寺家出身の紀良子であったことなどもあり、非常に密接な関わりがありました。

    将軍が直々に放生会の上卿をつとめることは前例がなく、石清水八幡宮のみならず朝廷・幕府にとっても画期的な出来事でした。

    放生会への関心

    河原崎家には放生会に関するものだけでなく、このほかにも多くの写本が伝わっており、奥書などの情報から、それらの多くが江戸時代中期以降に書写されたものであることが分かっています。

    では、なぜ河原崎家の人々はこれらの史料を収集していたのでしょうか。

    史料写真

    河原崎家に伝わった放生会関連史料

    その理由として、いくつかの可能性が考えられます。1つは、神人としての職務の参考資料とするために書物を収集していたということです。

    神事の際には、先例通り滞りなく役を勤めることが求められました。そこで、神事に携わる神人らは過去の記録から先例を学び、神事の次第や作法を習得しておく必要があったのです。

    前回までにもご紹介したように、宇治大路家は宝永5年(1708)、5代目の昌植が河原崎家の名跡を相続したことにより、他姓神職(他姓禰宜)をつとめる家となります。河原崎家を相続する以前、宇治大路家は社士として神事の警衛役を勤める家でした。つまり、神事に携わる他姓神職(他姓禰宜)の家としては新興とも言える家であり、先例となる記録などを十分に所有していなかったことが考えられます。このような背景から、神事の作法習得の参考となる先例の集積(書写)に熱心だった可能性が考えられます。

     2つめは、当時の朝儀復興の機運を背景とする学問的な興味関心です。

    約200年ぶりに放生会が再興したという事実は、放生会という儀式そのものへの関心や、過去の放生会への関心を喚起することとなったと思われます。

    さらに、放生会が再興した江戸時代中期は、朝儀復興の機運が高まっていた時期でもありました。江戸幕府の支援もあり、石清水の放生会のみならず、天皇の即位に際し執り行われる大嘗祭、放生会と同様の勅祭である賀茂祭、石清水の臨時祭なども江戸時代中期から後期にかけて再興されます。これら儀式の再興に向けて、貴族や学者は熱心に先例(有職故実)を考証していました。

    また、この時期は八幡においても柏村直條をはじめとして、公家衆とも交流のある文化人の活動が活発な時期でもありました。宇治大路家(河原崎家)の代々もまた、松花堂昭乗や中村久越、養子の貰い先である能勢家との関係から、知識人・文化人ネットワークの一端を担う存在でした(前々回資料紹介参照)。当時の知識人・文化人たちの間では、書物の貸し借りも頻繁に行われていました。

    今回ご紹介した『石清水放生会再興式』を書写した宇治大路昌直(東安・道益)も、儒学・医術を学び天皇の侍医となったとされる人物であり、京の文化人・知識人とのつながりを有していました(前回の資料紹介参照)。このようなことからも、「鴿峯の麓」、すなわち八幡のまちに住む一人の「書生」という立場から、石清水八幡宮における神事の復興へ強い関心を有していたことも考えられるでしょう。(文化財課:金子秋斗)

    用語集

    • 勅祭(ちょくさい)

    勅使(ちょくし)と呼ばれる天皇の使者が派遣され行われる祭り。石清水祭は春日大社の春日祭、上賀茂神社・下鴨神社の賀茂祭(葵祭)とならび三大勅祭のひとつに数えられる。

    • 宣命(せんみょう)

    天皇の勅命を宣すること。また、その文書。

    • 上卿(しょうけい)

    朝廷の儀式や会議などを執行するうえで任命された責任者。ここでは勅使のことをいう。

    • 鴿峯(はとがみね・こうほう)

    石清水八幡宮が鎮座する男山の別称、鳩嶺(はとがみね・きゅうれい)とも。

    • 祀官家(しかんけ)

    石清水八幡宮を統轄する家々。鎌倉時代、行教の出身である紀氏から田中家・善法寺家の2家が興り、江戸時代には2家に加え、両家から分かれた新善法寺家・壇家・東竹家などがあった。

    • 清原良賢(きよはらのよしかた)

    室町時代の公家・学者。清原氏は、中国の儒教経典等を学ぶ明経道(みょうぎょうどう)を専門とする学者の家。

    • 小槻兼治(おづきのかねはる)

    室町時代の官人。小槻氏は、代々朝廷において文書の伝達や処理等の実務を統轄する左大史(さだいし)を世襲した。

    • 万里小路時房(までのこうじときふさ)

    室町時代の公卿。時房が記した日記『建内記』(けんないき・けんだいき)は、当時の朝廷や社会状況を知ることができる重要な史料として知られる。

    • 朝儀(ちょうぎ)

    朝廷がおこなう儀式。

    • 有職故実(ゆうそくこじつ)

    古来の朝廷や武家の礼式・官職・法令・装束等の先例・典故。

    • 柏村直條(かしむらなおえだ)

    八幡森町の相撲神人。連歌・和歌・俳句等に秀で、朝廷や武家とも交流があった。

    参考文献

    • 近藤好和「儀礼にみる公家と武家―『建内記』応永二十四年八月十五日条から―」(『日本研究』46、2012年)。
    • 高埜利彦『近世の朝廷と宗教』(吉川弘文館、2014年)。
    • 『八幡市誌』第2巻。
    • 武内千代子・小西亘・土井三郎『石清水八幡宮『八幡八景』を読む』(2023年)。

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    八幡市役所こども未来部文化財課

    電話: 075-972-2580 ファックス: 075-972-2588

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