八幡市の歴史資料のご紹介(令和8年6月)
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河原崎家歴史資料のご紹介12
東海道の宿場町・橋本
今回は河原崎家歴史資料のうち、江戸時代の八幡において東海道の宿場町として栄えた橋本に関する史料を紹介します。
江戸時代、江戸と大坂とを結ぶ主要幹線道路であった東海道の道中には、宿・宿場町(しゅく・しゅくばまち)という、公用の荷物や通信物を次の宿まで運ぶ人馬の継ぎ立てや、旅人の宿泊を主とした道中拠点が置かれました。(東海道五十三次、東海道五十七次)

橋本の町並み(河内国との国境付近)。街道の両脇に多くの家屋が立ち並ぶ。
(国立公文書館蔵『河内名所図会』6(172-0213-0006、国立公文書館デジタルアーカイブ)より。「洞ヶ峠」ページ該当箇所を拡大。)
橋本は古代から水陸交通の要衝であり、街道成立後は淀宿と枚方宿の間に位置する宿場町、いわゆる間宿(あいのしゅく)として発展しました。間宿とは、江戸幕府により認定された正規の宿と宿との間にあり、旅人を休息・宿泊させる村のことを指します。橋本の歴史を説明する際には、同地が間宿であったことがしばしば強調されます。しかし、橋本は江戸時代を通して間宿だったのでしょうか?
宿場町としての橋本の実態をしめす史料は意外に乏しく、実は分かっていないことも多いのです。このことは、幕末の鳥羽・伏見の戦いで激戦地となったことにより、橋本の歴史を示す史料が残らなかったことも大きな要因であると思われます。以下、橋本が街道の宿場町であったことの一端を示す史料を見ていきましょう。
橋本宿 宿役停止関連史料(元禄7年頃)
巻頭部。上・下2通の文書が貼り継がれている。
橋本宿の宿役(人足役)停止に関する一連の文書15通の写しが貼り継がれ、巻子としてまとめられたものです。奥書によれば、石清水八幡宮の祠官家・新善法寺家が所有していた本紙を書き写したもののようです。年紀は不明ですが、連署している道中奉行や勘定奉行衆の顔ぶれを見ると、元禄7年(1694)前後の文書がまとめられていると推測できます。
〔道中奉行・勘定奉行衆連署状写〕(3月17日付)
〔道中奉行・勘定奉行衆連署状写〕前半
〔道中奉行・勘定奉行衆連署状写〕後半
これは、道中奉行・勘定奉行衆から八幡社務中へ出された通達文の写しです。
差出人として連署している人物の一人、高木伊勢守(守勝)は当時の道中奉行です。道中奉行は、江戸幕府において五街道や宿などの取締りや、道路・橋梁の普請(工事)、宿場の公事訴訟などを司る役職です。高木は当時の大目付でもありましたが、道中奉行は大目付が兼任する職でした。稲生伊賀守・井戸三十郎・松平美濃守は当時の勘定奉行、萩原彦次郎・諸星伝左衛門は勘定吟味役であると思われます。
通達文には、「八幡領内の橋本宿は先年から人足役を勤めていたが、この度相談の結果、今後は宿役を停止とするので、橋本宿の者にこのことを言い渡しなさい」と記されています。この時停止となっている宿役とは、街道の宿において、公用の荷物や通信物を次の宿まで運ぶために必要な人(人足)や馬(伝馬)を提供する役のことを言います。各宿では公用に備え、決められた数の人馬を常備しておく必要がありました。橋本宿は、これらのうち人足役のみを負担する宿だったようですが、その人足役の停止が通達されたのです。
通達文には続けて、「今後は淀宿から枚方宿までの間は直通とするよう、両宿の者にも申渡す。(淀宿と枚方宿は)宿間の距離も近いので、街道の往還が滞ることもないものと思われる」と記されています。こうして、淀宿と枚方宿の間に位置し、道中奉行支配のもと人足役を負担していた橋本宿は、元禄7年(1694)に宿役が停止されたことで、宿としての役割を終えることとなったのです。
宿役停止の背景
橋本は、少なくとも元禄7年頃までは宿役を負担する正規の宿であったことが分かりました。では、橋本宿の宿役はなぜ停止されたのでしょうか。このことについて、『石清水八幡宮史』では次のように述べられています。
年々公用の負担が大きくなっていた橋本宿では、元禄元年(1688)から宿近隣の郷を定助郷に設定することを社務に訴えます。しかし、助郷は容認されませんでした。橋本はその後も度々助郷設置を嘆願し、ついに元禄3年7月に八幡が助郷となります。
これに対して、今度は八幡から幕府へ助郷の負担軽減を求める口上書が提出されます。
〔道中奉行・勘定奉行衆裁許状写〕(6月23日付)
貼り継がれている文書からは、八幡から幕府への嘆願内容の一部が伺えます。この文書は、八幡八郷の惣年寄から訴えられた内容に対し、道中奉行ほか幕府役人から返答がなされたものです。
〔道中奉行・勘定奉行衆裁許状写〕冒頭(中略)
〔道中奉行・勘定奉行衆裁許状写〕末尾(中略)
内容を見ると、八郷惣年寄からは、八幡から必要以上に人足を出しているため人足を減らしてほしいこと、公用に入れられていない助郷人足を橋本の肝煎が私用に使っていること、賃銭が八幡の者に支払われていないことなどが訴えられていたことがわかります。
これに対して幕府からは、不要の人足は囲人足として留め置いていること、橋本宿肝煎を取り調べたところ私用に人足を遣わした事実はないこと、八幡分の未払い賃銭は八幡の助郷人足が詰める家を建てるために貯め置いていることなどが返答されています。
このように、宿役や助郷の負担をめぐりさまざまな調整が図られますが、結局解決には至らず、元禄7年(1694)に橋本宿の宿役は停止されます。宿役が停止された背景には、橋本や八幡で宿役や助郷の負担軽減を求める運動がありました。
また、当該期は増加する交通量に対して宿駅を維持するため、幕府によりさまざまな交通政策が実行された時期でもありました。中でも助郷制度の改革が実施されており、元禄7年には東海道・中山道・美濃路で、元禄9、10年には日光街道で助郷が再編されています。橋本の宿役停止も、こうした全国的な江戸幕府交通政策の動向とも関連していたと推測されます。
東海道は「五十八次」?
橋本は江戸時代を通して間宿だったのではなく、元禄7年頃までは道中奉行の支配のもとで宿役を負担する正規の宿でした。つまり、この頃までの東海道は「五十七次」ではなく、「五十八次」だったとも言えます。実際に、元禄期以前の守口宿に関する史料には、「東海道御役宿五拾八宿」のうち「(伝馬役は勤めず)人足役のみ勤める宿」として橋本宿と守口宿とが並記されています(「乍恐御訴訟申上候」貞享5年(1688)3月)。
橋本宿は、元禄期という江戸時代の比較的早い段階で宿としての役割を終えました。しかし、それによって橋本という地の重要性や、水陸交通の要衝としての長い歴史が失われたわけではなく、その後も変わらず多くの人・物が行き交う都市的な場であり続けました。こうした事実も、橋本が間宿として認識されるようになった要因の一つと言えるのではないでしょうか。
そして幕末期には、異国船の来航を発端とする対外意識の高まりや社会不安の中、橋本の地は京都警衛の要地として再び歴史の表舞台に登場することとなるのです。
(文化財課:金子・西川)
用語集
- 大目付(おおめつけ)
寛永9年(1632)に設置された江戸幕府の役職。老中支配のもと幕政の監察、諸大名の監視にあたった。定員は4・5名で、旗本から選任された。
- 定助郷(じょうすけごう)
宿駅の人馬が不足したとき、常にその補充を義務付けられた助郷村。対して、大型の通行時に定助郷でも人馬が不足した際に臨時に加役される村を大助郷といった。
- 囲人足(かこいにんそく)
非常時に備えて保留しておく人足。
参考文献
- 石清水八幡宮編『石清水八幡宮史』首巻(続群書類従完成会、1939(初版)・1997(二版))
- 深井甚三「綱吉政権の宿駅・助郷政策と担当吏僚」(同『幕藩制下陸上交通の研究』吉川弘文館、1994年、初出1981年)
- 児玉幸多編『日本交通史〈新装版〉』(吉川弘文館、第一版1992年、新装版2019年)
- 『守口市史』史料編 第3章(1962年)
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八幡市役所こども未来部文化財課
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