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石清水八幡宮境内の発掘調査成果(護国寺・大塔・瀧本坊)

[2014年3月14日]

石清水八幡宮境内(平成24年1月24日付史跡指定)において、平成22年度に遺跡の遺存状況を確認するための発掘調査を行いました。

江戸時代以前神仏習合のシンボルであった護国寺と大塔の跡、「空中茶室」閑雲軒の遺構が見つかった瀧本坊跡の3ヶ所を調査しました。

護国寺跡

石清水八幡宮 護国寺とは

石清水八幡宮護国寺は、本殿に次いで古く重要な施設です。伝承では八幡神遷座以前からあった山寺「石清水寺」を改めて護国寺とされています。

遷座以来、八幡宮全体を治める長官は護国寺の別当(長官)であり、本殿と一体で石清水八幡宮寺を構成していました。

江戸時代密教の法具が出土

今回の発掘調査では、密教法具である輪宝(りんぽう)と独鈷杵(とっこしょ)を用いた、江戸時代の密教の祭祀跡が見つかりました。

江戸時代後期の1816年に建てられた本堂の柱痕跡の内側に6ヶ所、小さな穴のなか、輪宝に独鈷杵が突き立てられた状態で出土しました。

これらは本堂内の須弥壇を囲うように、八方に配置されており、地鎮・鎮壇などの修法と見られます。輪宝が下に据えられた状況からは、天台密教の修法の可能性があります。

通常は輪宝と「けつ」(杭・柱を意味する密教法具)を用いますが、「けつ」のかわりに独鈷杵が用いられた例は特殊です。

天台宗の「安鎮(あんちん)家国法」による祭祀の可能性も考えられ、まさに京都の北東(鬼門)の守護を担った延暦寺と、南西(裏鬼門)で八幡大菩薩を祀る石清水八幡宮が、手をたずさえて王城=京都を守護してきたことを示しています。

現地説明

現地説明会の様子

遺構の様子

礎石抜き取り穴の状況

護国寺跡本堂と祭祀遺構

護国寺跡本堂と祭祀遺構

護国寺跡祭祀遺構

独鈷杵がささった状態で出土した輪宝

大塔跡

大塔の歴史

白河上皇の御願により、天永3年(1112年)建立されました。建久10年(1199年)に火災により焼失、建長5年(1253年)に再興されます。そののち慶長10年(1605年)には、豊臣秀頼が再興し、江戸時代の数回の修理を経て、明治時代初年まで残存していましたが、明治の神仏分離政策によって撤去されました。絵図によると、現在の本殿西側にありました。

大塔とは、密教寺院に建立される多宝塔のうち、柱間が5間ある大規模なものをいいます。平安時代、真言宗をひらいた空海がその様式を確立したことにより、平安時代以来、多宝塔や大塔は各地の密教寺院で建立されましたが、現存するものはわずかです。

発掘調査で大塔の雨落ち溝と落ち縁の束柱礎石が発見されました。雨落ち溝は北辺と東西の角、東辺が検出されました。礎石は江戸時代のものですが、雨落ち溝は江戸時代には埋まっており、中世以来大塔がこの場所に建っていたことが確かめられました。しかし、亀腹やそのうえの建物の礎石は徹底的に破却されており、廃仏毀釈の激しさを物語っているようです。

石清水の大塔は、14.9メートル四方で高さ約27メートルもあり、現存する大塔として最大の、和歌山県 根来寺の大塔と同規模であることがわかりました。

大塔跡での説明会の様子

大塔跡での説明の様子

大塔跡検出状況

大塔跡の雨落ち溝(写真右と左下)と束柱礎石(写真左中央)

瀧本坊跡

松花堂昭乗と閑雲軒

寛永の三筆として名高い松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)が住職をつとめたのが瀧本坊(たき[の]もとぼう)です。絵図から石清水社の北、護国寺跡の斜面下にあったことがわかっていました。

松花堂昭乗は昵懇の間柄であった小堀遠州(こぼりえんしゅう)とともに、寛永年間に「閑雲軒(かんうんけん)」と名付けた茶室をつくりました。江戸時代を通じて名高い茶人が訪れ、作成した見取り図が伝わっていますが、安永2年(1773年)には火事で焼失してしまいます。

発掘調査の結果、閑雲軒は7mもの柱で支えられた懸けづくりであったことがわかりました。閑雲軒の北に造られた書院は、ほぼ同じ様相で建て直されていたこともわかりました。

瀧本坊跡1

瀧本坊跡調査地北区

茶室・閑雲軒について

江戸時代前期の寛永年間、小堀遠州と松花堂昭乗が瀧本坊に共に作った茶室、それが閑雲軒です。遠州は四畳台目の茶室だけでなく、その北に「書院」という茶事にも使える4部屋をつくりました。これが遠州の新しい境地なのです。

利休の茶と大名の茶

千利休の茶室は、内部は柱をも隠す塗り込めとした一畳台目(一畳+一畳の4分の3サイズの畳)のような、わび茶の真髄を極限まで追求した、狭い閉ざされた空間に重心を置いた点がその大きな特徴です。

利休のあとを継いだ茶の湯の指導者たち、古田織部や小堀遠州は武家であったためか、利休の狭い茶室に対して、開放的な空間構成を取り入れる方向へと変化を進めます。室内を四畳以上に大きくし、窓を多く設けます。さらに遠州は、茶室で濃茶を差し上げたあとに、書院に場を移して薄茶や懐石をすすめるという、茶室と書院を組み合わせた新しい茶の様式を開拓します。

瀧本坊の遺構

瀧本坊は、小堀遠州の初期作品のひとつであり、遠州の茶を語るのに欠かせない遺跡です。今回の発掘調査で、床面のほとんどが崖の上に迫り出す「懸け造り」であったことがわかり、空中に向かって歩み出すような縁側を、これまでは庭に作られていた「露地(ろじ)」に見立てていたことが明らかになりました。書院も懸け造りで、全体的にも独創的なつくりだったようです。

このような建物をつくるには、高い石垣を築くなどの築城技術を持っており、城の作事奉行をも務めた遠州が必要不可欠でした。瀧本坊でも東側の斜面に3段に築かれた堅牢な石垣が見つかっています。しかし、この瀧本坊でのみこの独創的な建物が存在したことを考えると、松花堂昭乗のアイデアが、多分に遠州の発想に影響をもたらしたことも想像できます。

閑雲軒と松花堂

閑雲軒は、中村昌生先生(京都工芸繊維大学名誉教授・松花堂美術館名誉館長)による復元茶室が2つあります。ひとつは広島県三和の森リゾート&カンファレンスセンターに復元されている「双忘亭」(現在非公開)、もうひとつが八幡市八幡女郎花の松花堂庭園の「松隠」です。松隠は本来の閑雲軒にはない玄関や広間がついており、厳密な復元ではありませんが、懸け造りの雰囲気が感じられる外観をしています。

松花堂庭園には松隠とともに、松花堂昭乗が晩年過ごした庵・松花堂と泉坊書院も移築され現存します。松花堂は、単なる茶室ではなく昭乗の生活の場です。わずか二畳に、床・棚・仏壇などを組み入れた一切の無駄のない研ぎ澄まされた空間は、利休以来のわび茶の真髄を的確に受け継いでいることを示しており、一見の価値があります。瀧本坊では、茶室・閑雲軒と書院4室を飾る数多くの名物道具を必要とする空間に身を置いていたことと対比すると、昭乗の境地がより一層感じられることでしょう。

松隠(玄関)

松隠の外観

松隠(閑雲軒)

閑雲軒、四畳台目の茶室

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八幡市役所教育部文化財保護課

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