八幡市の歴史資料のご紹介(令和8年10月)
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河原崎家歴史資料のご紹介13
放生会の宣命から見る幕末
令和8年9月15日、石清水八幡宮にて勅祭「石清水祭」が執り行われました。石清水祭は、「石清水放生会」として平安時代にはじまった祭儀です。
石清水祭において頓宮でおこなわれる「奉幣の儀」では、神前に御幣物や神饌が捧げられた後、天皇の使者である勅使(上卿)により、天皇からの御祭文が奏上され、国家の繁栄・国民の安泰・世界平和が祈願されます(上卿御祭文奏上)。今回は、河原崎家に伝わった文書のうち、幕末の石清水放生会や臨時の奉幣において神前で奏上された宣命(せんみょう)に関する史料を紹介します。
宣命とは、天皇の命令・言葉を口頭で読み上げること、またはその文書のことを言います。文書は宣命体(宣命書)という特殊な文体で表記され、神社祭祀などの際に読み上げられます。宣命の内容をみることで、当時の天皇や朝廷が石清水八幡宮にどのようなことを期待し、祈願していたのかが分かります。
嘉永6年8月15日放生会宣命(写)
嘉永6年(1853)6月3日、アメリカの東インド艦隊司令官兼米使提督マシュー・ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖(現神奈川県横須賀市)に来航します。ペリーは、江戸幕府に日本の開国を求めるアメリカ大統領の国書を提出した後退去します。いわゆる黒船来航です。
河原崎家には、この年の放生会(8月15日)で奏上された宣命(辞別)の写しが残されており、そこには次のように書かれています。
放生会宣命(写)嘉永6年8月15日
【大意】(「 」の文言は宣命の原文を引用)
- 6月に「相模国御浦郡」(三浦郡)浦賀の岸に「夷乃船」(異国の船)が来たが、日数も経たず退去していった。
- 近年、しばしば(異国船が)近海に着くので防御を厳重にしてきたが、「民心乃不安」をどのようにすればよいか、覚めても寝ても危ぶみ恐れている。
- 「大菩薩」(八幡大菩薩)の深きめぐみ、広き助けによって、たとえ「禍」(わざわい)が来ても「擁護乃誓」を違えず「攘」(はら)い除けて、「四海」いよいよ「静謐」に、「国体」いよいよ「安穏」にお護りください。
6月に浦賀に異国船が来航したことをはじめ、近海に異国船が現れ、民の心が安らかでないことが奏上され、国の平和が祈願されています。
また、放生会の前日、8月14日には河原崎安親ら石清水八幡宮の神人たちが当務へ赴き、先んじて宣命が披露され、祈願の意図が伝えられています。当時の河原崎家の日記には次の通り記されています。
【大意】
十四日(中略)当務へ宣命を拝読に行く。出勤の者どもは、たとえ異国船が来ても速やかに退帆し、宝祚長久・天下泰平の祈念をいたすようにと、とりわけ執奏家より仰せつけられたとのこと。
執奏家とは、天皇・朝廷と寺社を取り次ぐ役割を果たした公家のことで、石清水八幡宮の執奏は広橋家が務めていました。今回の放生会では、異国船の来航を踏まえて祈念するよう朝廷から伝えられ、当務から放生会に出勤する神人たちにまで伝達されたことがわかります。
安政5年8月15日 放生会宣命(写)
黒船来航から5年後、安政5年(1858)8月15日の放生会で奏上された宣命を書き写したものです。この年の放生会は、安政の五か国条約調印の前後という国家的危機到来のなか開催されました。奏上された宣命(辞別)の大意は以下の通りです。
放生会宣命(写)安政5年8月15日(見開き左、後略)
【大意】(「 」の文言は宣命の原文を引用)
- 「蛮夷等」(異国人)が「和好」を口実に「皇国」(日本)を欺こうとしており、そうした「驕傲」(傍若無人)なありさまは、天皇の威光を軽んじ国を汚す「国家乃大患」(大きなわざわい)である。
- このような災難に際し、「人民乃不安」をどのようにすればよいか日夜深く悩んでいる。国を挙げて「人民乃心志」を一つに忠誠を尽くしたうえは、「神明乃威徳」を頼らずしてどのようにわざわいを排除することができようか。
- そこで、「大菩薩」(八幡大菩薩)に願いをお聞きいただき、「擁護乃神託」に違うことなく、「文永・弘安乃威鑑」を今あらたに示され、「醜夷」を遥か遠くに「攘」(はら)い、世の中が平穏に、万民が安穏となるようお護りください。
「擁護乃神託」は、さきにみた嘉永6年の宣命でも「擁護乃誓」として登場した文言です。これは、貞観元年(859)、宇佐八幡宮で祈禱を続けていた大安寺の僧・行教に対し、八幡神が「都近くの男山に遷り、国家を鎮護しよう」との託宣を示したことをさします。この年の託宣は、男山に石清水八幡宮が創建されるきっかけとなる出来事でしたが、ここでは八幡神(八幡大菩薩)による鎮護国家・王城鎮護の誓願として重視されています。
また、「文永・弘安乃威鑑」は鎌倉時代、文永・弘安の役(元寇・蒙古襲来)の際に八幡神の神威により外敵を退けたとされる逸話から、異国撃退の佳例として意識されたものと思われます。
さらに、さきに見た嘉永6年の放生会では「禍」(わざわい)を「攘」(はら)うとされていたところ、安政5年の宣命では「夷」(外敵)を「攘」う、すなわち攘夷の語が用いられていることも重要です。このように、安政5年の放生会宣命ではアメリカをはじめとする欧米諸国との条約調印が強烈に意識されていました。
安政5年6月23日 臨時奉幣宣命(写)
実は安政5年には、放生会の約2ヶ月前(6月23日)にも石清水八幡宮に祈願が行なわれていました。
臨時奉幣宣命(写)
安政5年6月23日
これは、三社奉幣として朝廷から伊勢神宮・上下賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社)・石清水八幡宮の三社に対し行われたもので、日米修好通商条約調印をめぐる緊迫した政治・社会情勢のなか、孝明天皇の強い意向で行われました。この時の臨時奉幣は、勅使が宣命に加えて天皇の願いが記された密詔を携え祈願するという特別なものでした。この奉幣に供奉した石清水神人の日記にも「格別之御願」と記録されています。
臨時奉幣で奏上された宣命の内容は、さきに紹介した放生会(8月15日)の宣命とおおよそ同様の趣旨ですが、6月の段階では「墨夷」(アメリカ)を「魁首」と名指ししている点や、「攘夷」の語が用いられていないなど、文言に若干の違いが見られます。
また、同時に奉幣が行われた伊勢神宮と上賀茂社・下鴨社への宣命には、異国撃退と鎮護国家・王城鎮護に関する直接的な文言が見られないのも大きな特徴です。このことは、異国撃退と鎮護国家・王城鎮護が石清水特有の功徳として強く意識されていたことを物語っています。
幕末の政治・社会情勢と八幡
幕末の石清水八幡宮において、放生会や臨時の奉幣で読み上げられた宣命について、文中に用いられている文言に着目して紹介しました。幕末期の石清水に奏上された宣命には、異国船来航から不平等条約の調印、朝幕関係の変化など当該期の緊迫した政治・社会状況が生々しく反映されていました。当時の天皇や朝廷がこうした情勢をいかに危惧していたのかが伝わってきます。また、石清水八幡宮に対しては、特に文永・弘安の役を佳例とする異国撃退の再現が期待され、八幡神から行教への神託に基づく鎮護国家・王城鎮護が祈願されていました。
宣命に用いられている文言は単なる美辞麗句ではなく、当時の緊迫した政治・社会情勢や、石清水八幡宮の縁起・歴史を色濃く反映したものだったのです。
そしてこうした宣命は、嘉永6年の日記に見られたように、神事に深く関与する石清水八幡宮の神職や神人たちに共有され、記録されました。河原崎家は、石清水八幡宮の神事の際に神官を補佐する神人(四座神人)のうち、他姓座神人を相続したため宣命を記録することができました。
国家的な祭事であった石清水放生会に関する文書が、現代にいたるまで個人宅に伝わっていることは、石清水八幡宮の神人が数多く居住していた八幡地域の大きな特色であるといえます。
(文化財課:金子・西川)
用語集
- 宣命体
助詞・助動詞・語尾などを一字一音の万葉仮名(尓=に、氐=て など)で右寄り、あるいは2行に割り小さく記す特殊な文体。
- 辞別(ことわけ)
特別にことばを改めて、改まった調子でのべること。
- 安政の五か国条約
安政5年6月19日、アメリカ総領事・ハリスからの執拗な条約締結要求に対し、江戸幕府が天皇の許可なく条約(日米修好通商条約)に調印したことをはじめとして、7月にはオランダ・ロシア・イギリス、放生会後の9月にはフランスとの間で締結された不平等条約の総称。
- 託宣(たくせん)
神のことば、お告げ。
参考文献
- 宮内省先帝御事績取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮、1967年)。
- 『石清水八幡宮史』史料第三輯 祭祀編 下(石清水八幡宮社務所、1994年)。
- 武田秀章『維新期天皇祭祀の研究』(法蔵館、2024年、初版は大明堂、1996年)。
- 「石清水祭次第」(石清水八幡宮ホームページ「勅祭 石清水祭」)。
お問い合わせ
八幡市役所こども未来部文化財課
電話: 075-972-2580 ファックス: 075-972-2588
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